秋ともなれば、感傷的になるものだ。
何故かは解らない。ただただ感傷的になる季節、それが秋。
で、そんな感傷的な季節に僕は思った。
オレ、なんで生きとんのやろ。と。
へんな方言は無視してほしい。田舎者だから心では標準語で喋れないんだ…。
それは置いといてですね、もう最近なんというか生きている価値?というか、その目的が曖昧で何が何だかよく分からんのですよ。
まぁ、そもそも生きることに目的を探すこと自体が無意味だって意見も分かる。生きていること自体に意味があって、そこで泣いたり、笑ったり、怒ったりする事に意味がある、ってことなんでしょうけどね、その意味することは。まあ、確かにそうかもね、と感ずる。
だがそれはあまりにも漠然とした意見なのだ。
元来無気力で怠け者な僕にとって、そういった曖昧な意見はイマイチピンとこない。
なるほど好きな人と過ごす時は楽しいし、友人と馬鹿やってる時も楽しい。
だが、心の片隅で、「だからなんやねん。」と思う自分がいる。
そして普段はそういう自分が嫌で、そういった考えを圧殺し、
無視している。その思考を体現すれば、悲劇が待ちうけていることを過去に体験したからである。
高校時代。
僕にも親友と呼べる男がいた。彼とは休み時間だけでなく、下校の時間、休みの日など、頻繁に同じ時を共有していた。
だが、やはり僕は心のどこか暗いところで、
「コイツと絡んだところで、なんやねん。何の価値があんねん。まぁ楽しい事は楽しいけど、せやからどうやねん。」
みたいな考えはあった。
そしてある日突然僕は彼を無視しはじめた。
別段大喧嘩かましたわけでもないし、いざこざがあったわけでもない。
僕が勝手に無視しただけだ。
それもこれも、そいつと付き合うのが面倒になったから、という理由に集約される。
つまり「せやからどうやねん」という思いが、彼と共有する時よりいつの間にか大きくなってしまっていて、それが態度に出たのである。
もちろん後味は悪かったが、どうしても僕には彼とつるめなかった。
一度そういったダークな感情が心の半分を超えてしまうと、
一度泣き始めた人間がなかなかその涙を止められないのと同様、
その感情を抑えることはできなくなってしまうのだ。
もちろん、それを無視していつもどおりに振舞うことも不可能ではなかったが、それはあまりに苦痛であったので、僕はそれをしなかった。
自分の心に従ったと書けば恰好はつくが、その実やっていることは無視である。
心に従うことは必ずしも正しいことではない、とその時具体的に理解した。げんに、そいつは僕に無視され続け、非常に気が立っていたからである。
それから半年したのち、僕は心を入れ替え、そいつと元通りの関係に戻った。
始めこそギクシャクした雰囲気であったが、次第に蟠りもなくなり、過去の関係に戻った。
心を入れ替えた因果は、今では思い出せないが、単純にダークな心情が薄れたたからだ、と思う。
人と一定の時を過ごすと、彼彼女の嫌な面も見えてくるもので、それが自分の心のプレッシャーとなり、「こんな嫌な想いをしてまでつるむのアホらし。」となるものであるが、ある程度間を置いていればその「嫌な面」の影を潜め、「良い面」が想起されるものだ。失恋した後、あんなにむかついた女でも、「いいとこあったやんなー」と思ってしまうことに似ている。
おそらく、当時の僕も「あいつもええやつやし、また仲良くやっとこかなー。」というマインドのもと仲よくしようと言う決心に至ったのだろうと推察される。
今でも彼を無視し、その時の嫌な気持ちを思い起こすと気分が滅入る。
これが「嫌な思考」を体現する事をやめた僕の経験である。
だが、しかしである。
それが果たして正しのか?という疑念は今でも蟠っている。
自分が嫌だと感じたことで人を傷つけたとして、それは仕方ないことなのではないだろうか?と思うのである。
なるほど人は傷つくであろう。僕もその姿を見たりするのは辛いが、だからと言って自分の考え、マインドを表現できないのはどうなんだろう。傷つくこと、傷つけることは直感的に悪だと認識するが、果たしてそれが本当に悪なのであろうか?
人間関係についての話が長くなったのでこれはこの辺で終わりにしておこう。(これは生きることに意味がある、という意見に対しての疑問の例示でしたよね。)
話は「生きることの目的は存在して然るべきか?」と言うところまで戻る。
結論を先に言えば、僕には分からない。
そもそも生きる事自体が不確実性に富んだもので、それに目的をつけようとしたところで、具体的に目的を設定しようとしても「金持ちになる」とか「楽しく生きる」とか、そういった曖昧なことしかおもいつかない。少なくとも学生の僕ではそのくらいだ。
金持ちといっても資産総額2億か、5億か、100億か?
仮にその額に到達したとして、それで職をリタイアできるのか?また設定目標を変更して、更に金儲けに奔走するのではないか?
それ自体が良い悪いの議論ではなくて、ここで言いたいのは人生に目標など立てたところで結局人間なぞ不確実性に満ち溢れたもので、その目的が達成、もしくは破綻したところで「だからどうやねん」となるわけで、最終的に設定された目標はあってないものに帰するのではないか、と思うわけである。
無論コレは人生レベルでの「目標」もしくは「目的」であって、
短期的なそれを指してはいない。
だが、人間たるもの大きな目標があって、それに向ってこつこつ頑張りたいものである。
受験がなければ大抵のド餓鬼は勉強しないように、目標があるからこそ、人は頑張るのである。
そういう視点からすれば、今の僕は学生なので、人生なんぞ長い視点を捨て、卒業後のこと、もしくは単位を優でとりまくる、という短期的な目標を設定して生活すればよいのかもしれない。
ただこの案もはっきり言って「だから、優とって、ええ企業に入社したところで、それがどうなん?」という根本的な問いの解決にはなってない。
そして果たしてその疑問は無視しても良いのか?
僕は分からない。
解らないからこそ、「オレ、なんで生きてるんやろ」
という疑問を持つわけである。
学生というのは切羽詰ってないぶん、締りがない。
その日食べるものもあるし、生活には困らないから。(少なくとも僕はね。)
多くの社会人のように自立する必要もないのだ。
そういう身分の「オレ、なんで生きてるんやろ」はアマイと思う。だが、少なくとも僕にとってはなかなかどうして深刻な問題である。
http://blog.with2.net/link.php?373700
↑ブログランキングです。
良かったらクリックしてください。
何故かは解らない。ただただ感傷的になる季節、それが秋。
で、そんな感傷的な季節に僕は思った。
オレ、なんで生きとんのやろ。と。
へんな方言は無視してほしい。田舎者だから心では標準語で喋れないんだ…。
それは置いといてですね、もう最近なんというか生きている価値?というか、その目的が曖昧で何が何だかよく分からんのですよ。
まぁ、そもそも生きることに目的を探すこと自体が無意味だって意見も分かる。生きていること自体に意味があって、そこで泣いたり、笑ったり、怒ったりする事に意味がある、ってことなんでしょうけどね、その意味することは。まあ、確かにそうかもね、と感ずる。
だがそれはあまりにも漠然とした意見なのだ。
元来無気力で怠け者な僕にとって、そういった曖昧な意見はイマイチピンとこない。
なるほど好きな人と過ごす時は楽しいし、友人と馬鹿やってる時も楽しい。
だが、心の片隅で、「だからなんやねん。」と思う自分がいる。
そして普段はそういう自分が嫌で、そういった考えを圧殺し、
無視している。その思考を体現すれば、悲劇が待ちうけていることを過去に体験したからである。
高校時代。
僕にも親友と呼べる男がいた。彼とは休み時間だけでなく、下校の時間、休みの日など、頻繁に同じ時を共有していた。
だが、やはり僕は心のどこか暗いところで、
「コイツと絡んだところで、なんやねん。何の価値があんねん。まぁ楽しい事は楽しいけど、せやからどうやねん。」
みたいな考えはあった。
そしてある日突然僕は彼を無視しはじめた。
別段大喧嘩かましたわけでもないし、いざこざがあったわけでもない。
僕が勝手に無視しただけだ。
それもこれも、そいつと付き合うのが面倒になったから、という理由に集約される。
つまり「せやからどうやねん」という思いが、彼と共有する時よりいつの間にか大きくなってしまっていて、それが態度に出たのである。
もちろん後味は悪かったが、どうしても僕には彼とつるめなかった。
一度そういったダークな感情が心の半分を超えてしまうと、
一度泣き始めた人間がなかなかその涙を止められないのと同様、
その感情を抑えることはできなくなってしまうのだ。
もちろん、それを無視していつもどおりに振舞うことも不可能ではなかったが、それはあまりに苦痛であったので、僕はそれをしなかった。
自分の心に従ったと書けば恰好はつくが、その実やっていることは無視である。
心に従うことは必ずしも正しいことではない、とその時具体的に理解した。げんに、そいつは僕に無視され続け、非常に気が立っていたからである。
それから半年したのち、僕は心を入れ替え、そいつと元通りの関係に戻った。
始めこそギクシャクした雰囲気であったが、次第に蟠りもなくなり、過去の関係に戻った。
心を入れ替えた因果は、今では思い出せないが、単純にダークな心情が薄れたたからだ、と思う。
人と一定の時を過ごすと、彼彼女の嫌な面も見えてくるもので、それが自分の心のプレッシャーとなり、「こんな嫌な想いをしてまでつるむのアホらし。」となるものであるが、ある程度間を置いていればその「嫌な面」の影を潜め、「良い面」が想起されるものだ。失恋した後、あんなにむかついた女でも、「いいとこあったやんなー」と思ってしまうことに似ている。
おそらく、当時の僕も「あいつもええやつやし、また仲良くやっとこかなー。」というマインドのもと仲よくしようと言う決心に至ったのだろうと推察される。
今でも彼を無視し、その時の嫌な気持ちを思い起こすと気分が滅入る。
これが「嫌な思考」を体現する事をやめた僕の経験である。
だが、しかしである。
それが果たして正しのか?という疑念は今でも蟠っている。
自分が嫌だと感じたことで人を傷つけたとして、それは仕方ないことなのではないだろうか?と思うのである。
なるほど人は傷つくであろう。僕もその姿を見たりするのは辛いが、だからと言って自分の考え、マインドを表現できないのはどうなんだろう。傷つくこと、傷つけることは直感的に悪だと認識するが、果たしてそれが本当に悪なのであろうか?
人間関係についての話が長くなったのでこれはこの辺で終わりにしておこう。(これは生きることに意味がある、という意見に対しての疑問の例示でしたよね。)
話は「生きることの目的は存在して然るべきか?」と言うところまで戻る。
結論を先に言えば、僕には分からない。
そもそも生きる事自体が不確実性に富んだもので、それに目的をつけようとしたところで、具体的に目的を設定しようとしても「金持ちになる」とか「楽しく生きる」とか、そういった曖昧なことしかおもいつかない。少なくとも学生の僕ではそのくらいだ。
金持ちといっても資産総額2億か、5億か、100億か?
仮にその額に到達したとして、それで職をリタイアできるのか?また設定目標を変更して、更に金儲けに奔走するのではないか?
それ自体が良い悪いの議論ではなくて、ここで言いたいのは人生に目標など立てたところで結局人間なぞ不確実性に満ち溢れたもので、その目的が達成、もしくは破綻したところで「だからどうやねん」となるわけで、最終的に設定された目標はあってないものに帰するのではないか、と思うわけである。
無論コレは人生レベルでの「目標」もしくは「目的」であって、
短期的なそれを指してはいない。
だが、人間たるもの大きな目標があって、それに向ってこつこつ頑張りたいものである。
受験がなければ大抵のド餓鬼は勉強しないように、目標があるからこそ、人は頑張るのである。
そういう視点からすれば、今の僕は学生なので、人生なんぞ長い視点を捨て、卒業後のこと、もしくは単位を優でとりまくる、という短期的な目標を設定して生活すればよいのかもしれない。
ただこの案もはっきり言って「だから、優とって、ええ企業に入社したところで、それがどうなん?」という根本的な問いの解決にはなってない。
そして果たしてその疑問は無視しても良いのか?
僕は分からない。
解らないからこそ、「オレ、なんで生きてるんやろ」
という疑問を持つわけである。
学生というのは切羽詰ってないぶん、締りがない。
その日食べるものもあるし、生活には困らないから。(少なくとも僕はね。)
多くの社会人のように自立する必要もないのだ。
そういう身分の「オレ、なんで生きてるんやろ」はアマイと思う。だが、少なくとも僕にとってはなかなかどうして深刻な問題である。
http://blog.with2.net/link.php?373700
↑ブログランキングです。
良かったらクリックしてください。
コメント