あー、人生と言うのはうまくいかないものですね。
それはいいとして、
今日は甘えについて。
僕は人間関係に甘えを極力持ち込みたくない、と思っている。
甘えとは、分かりきったことをわざわざ相手に質問して、安心感を得ようとする行為や、
自分自身の保身のためだけに発せられる言葉であったり、
相手の考えていることなどないと仮定し、相手が自分の思うような反応をしてくれると期待することであったりする。
例えば、恋人に向って何度も「あたしのこと好き?」と訊くのは甘えだ。
好きでないならつきあってないだろう。
仮にそういわれないと不安であっても、他人に強制的に言葉をいわせることは決して愛なんかじゃない。
出来ることと言えば、自分を磨くなりなんなりして、「好き」と思わせる、そのくらいじゃないのか、と思う。
そういう甘えたやつは、決して自分を省みず、人に何かを頼ろうとする。
根本には「自分様」の考えがあり、他人は自分の思う通りに動いてくれるものだと信じている。
だから、自己の主張は通って当然だと思うし、それを否定する人間が憎く感じる。
そういう人間は、一見至極フツーな人間に見えることもあるのだが、深く付き合えば確実にその片鱗を見せ始める。
というか、結構そういう人種は多い。
それは、そもそも日本社会が甘えと依存に立脚した社会を構成していることが根本的な起因要素になっていると、僕は感じる。
人間関係、特に上下関係を見ればよく分かるが、年下は無条件に年上に対して敬語を使わなければならない。
これは所謂「人間」をみているのではなくてあくまで「序列」を見ているに過ぎない証拠で、
年上だから威張れる、年下だから謙る(へりくだる)、そういったマインドがド餓鬼のころから叩きこまれ、
僕たちは育った。
人を見ず、ステータスで判断する社会に、個人という概念は発生しにくい。
個人主義とどうしても序列社会において異端的要素になってしまうからだ。
先輩は先輩だけど、俺は俺でやるから、ほっといてくれないかな、
というマインドは極めて日本で危険であることに説明の余地はないだろう。
つまり、この序列の例で言いたかったのは、まず年上だからと言って、妄信的に敬語を使い、それがもはや常識となっている社会において、個人と言う概念はとても発生しにくいし、発生しても阻害されやすい、ということだ。
この例をふまえ、次の例を提出したい。
日本は有史以来、殆ど他者を受け入れてこなかった。
他の多くの国家は何度も他者に侵略されたり、占領されたり、植民地化されたりした。
日本はそういう経験を持たない、極めて稀な国なのだが、それが日本人に悪影響を及ぼしたことも否定出来ない。
アメリカだと、さまざまな肌の色の人がいて、価値観も宗教も決して統一されておらず、まさにサラダボウルと呼ぶに相応しい国だと思う、。
そういう国には他者を受け入れるマインドが自然と育つ。
当たり前だが、自分たちの価値観等を押し付けるだけでは戦争になることを彼らは「痛み」とともにしっているのだ。
だからこそ彼らは受け入れる努力もするし、実際にいくつかの差別は残っているが、それでも立派なものだと思う。
翻って日本はどうだろう。
風土はかわりつつあるが、やはり村的な社会が根本的にあるのではないか。
村的とは僕の造語なのだが、要するにみんな仲間、価値観は同じ、変なやつはでていけ!
というマインドのこと。
そういう社会にドップリつかっていると、どうしても甘えは生じてしまう。
みんなと同じでないと排除されるのだから、みんなと合わせるしかない。
だから、合わせる。合わせるには何が必要かと言うと、のっぺりとした、平穏な関係だ。
そういった平穏な関係に、一歩ひいいた視点、立ち位置はやはり好まれず、
ベタベタした、気さく過ぎる関係が好まれる。
そこで人は他者は自分とそんなに変わらない人間なのかもしれないと勘違いし、(個人が見えにくくなるから)
依存し、最終的に甘える。
以上二つの例で言いたかったことは日本にはマズ個人と言う概念が発生しにくく、また村的共同体のマインドにより、甘えはとても起こりやすい、ということで、それすなわち日本人には甘えたがるやつがいっぱいいるんじゃないかなぁ、と思うことの証明である。
だが、僕は甘えが絶対的に悪だとは言わないし、言えない。
確かに、だらだら甘えて、ストレスを発散させるのも気持ちいい。
愚痴を訊いてもらう、というのも考えてみれば一種の甘えかもしれない。
相手が聴きたくないのに、自分のエゴだけで発散しているのだから。
また、付き合っているひとに別れを切り出され、その上もう絶対に関係は修復しないことは分かっていて、何度も引きとめようと説得することも、甘えなのかもしれない。
それは相手に対しての、というよりも主に自分に対しての、だが。
しかし、厳しい現実をうけりれるのはツライコトだ。
「甘え?くだらん!反吐が出る!」
というのは簡単だ。
だが、なぜ甘えが生じるのか、と考え、そしてその原因がどうしようもなく切実だった時、
甘えは心の平穏のため、時に必要となる。
まぁ基本的に甘えたり、依存する人間はうざいと思って、いままでそういった人間を徹底的に下に見ていたが、これからはもうちょっと大らかな視点を持とうと思う。
http://blog.with2.net/link.php?373700
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今日は甘えについて。
僕は人間関係に甘えを極力持ち込みたくない、と思っている。
甘えとは、分かりきったことをわざわざ相手に質問して、安心感を得ようとする行為や、
自分自身の保身のためだけに発せられる言葉であったり、
相手の考えていることなどないと仮定し、相手が自分の思うような反応をしてくれると期待することであったりする。
例えば、恋人に向って何度も「あたしのこと好き?」と訊くのは甘えだ。
好きでないならつきあってないだろう。
仮にそういわれないと不安であっても、他人に強制的に言葉をいわせることは決して愛なんかじゃない。
出来ることと言えば、自分を磨くなりなんなりして、「好き」と思わせる、そのくらいじゃないのか、と思う。
そういう甘えたやつは、決して自分を省みず、人に何かを頼ろうとする。
根本には「自分様」の考えがあり、他人は自分の思う通りに動いてくれるものだと信じている。
だから、自己の主張は通って当然だと思うし、それを否定する人間が憎く感じる。
そういう人間は、一見至極フツーな人間に見えることもあるのだが、深く付き合えば確実にその片鱗を見せ始める。
というか、結構そういう人種は多い。
それは、そもそも日本社会が甘えと依存に立脚した社会を構成していることが根本的な起因要素になっていると、僕は感じる。
人間関係、特に上下関係を見ればよく分かるが、年下は無条件に年上に対して敬語を使わなければならない。
これは所謂「人間」をみているのではなくてあくまで「序列」を見ているに過ぎない証拠で、
年上だから威張れる、年下だから謙る(へりくだる)、そういったマインドがド餓鬼のころから叩きこまれ、
僕たちは育った。
人を見ず、ステータスで判断する社会に、個人という概念は発生しにくい。
個人主義とどうしても序列社会において異端的要素になってしまうからだ。
先輩は先輩だけど、俺は俺でやるから、ほっといてくれないかな、
というマインドは極めて日本で危険であることに説明の余地はないだろう。
つまり、この序列の例で言いたかったのは、まず年上だからと言って、妄信的に敬語を使い、それがもはや常識となっている社会において、個人と言う概念はとても発生しにくいし、発生しても阻害されやすい、ということだ。
この例をふまえ、次の例を提出したい。
日本は有史以来、殆ど他者を受け入れてこなかった。
他の多くの国家は何度も他者に侵略されたり、占領されたり、植民地化されたりした。
日本はそういう経験を持たない、極めて稀な国なのだが、それが日本人に悪影響を及ぼしたことも否定出来ない。
アメリカだと、さまざまな肌の色の人がいて、価値観も宗教も決して統一されておらず、まさにサラダボウルと呼ぶに相応しい国だと思う、。
そういう国には他者を受け入れるマインドが自然と育つ。
当たり前だが、自分たちの価値観等を押し付けるだけでは戦争になることを彼らは「痛み」とともにしっているのだ。
だからこそ彼らは受け入れる努力もするし、実際にいくつかの差別は残っているが、それでも立派なものだと思う。
翻って日本はどうだろう。
風土はかわりつつあるが、やはり村的な社会が根本的にあるのではないか。
村的とは僕の造語なのだが、要するにみんな仲間、価値観は同じ、変なやつはでていけ!
というマインドのこと。
そういう社会にドップリつかっていると、どうしても甘えは生じてしまう。
みんなと同じでないと排除されるのだから、みんなと合わせるしかない。
だから、合わせる。合わせるには何が必要かと言うと、のっぺりとした、平穏な関係だ。
そういった平穏な関係に、一歩ひいいた視点、立ち位置はやはり好まれず、
ベタベタした、気さく過ぎる関係が好まれる。
そこで人は他者は自分とそんなに変わらない人間なのかもしれないと勘違いし、(個人が見えにくくなるから)
依存し、最終的に甘える。
以上二つの例で言いたかったことは日本にはマズ個人と言う概念が発生しにくく、また村的共同体のマインドにより、甘えはとても起こりやすい、ということで、それすなわち日本人には甘えたがるやつがいっぱいいるんじゃないかなぁ、と思うことの証明である。
だが、僕は甘えが絶対的に悪だとは言わないし、言えない。
確かに、だらだら甘えて、ストレスを発散させるのも気持ちいい。
愚痴を訊いてもらう、というのも考えてみれば一種の甘えかもしれない。
相手が聴きたくないのに、自分のエゴだけで発散しているのだから。
また、付き合っているひとに別れを切り出され、その上もう絶対に関係は修復しないことは分かっていて、何度も引きとめようと説得することも、甘えなのかもしれない。
それは相手に対しての、というよりも主に自分に対しての、だが。
しかし、厳しい現実をうけりれるのはツライコトだ。
「甘え?くだらん!反吐が出る!」
というのは簡単だ。
だが、なぜ甘えが生じるのか、と考え、そしてその原因がどうしようもなく切実だった時、
甘えは心の平穏のため、時に必要となる。
まぁ基本的に甘えたり、依存する人間はうざいと思って、いままでそういった人間を徹底的に下に見ていたが、これからはもうちょっと大らかな視点を持とうと思う。
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コメント
ただ、この記事を読んであなたの考えに共感したのでコメントさせていただきます。
甘えというのは確かにエゴの現れであり、対等な、信頼を置ける関係においては不必要なものであると思います。
しかし、ただ否定するのは簡単で、自分から甘えを排除できるかというと別問題。
盛男さんのいうように、甘えが生じる原因をよく考え(この考える、ということが重要ですね)、それでもやっぱりどうしようもないんだ、と気付いたときに、甘えを持ってもいいんじゃないかと思います。こういう考え自体が甘えと言えるのかもしれませんが。
えーと、ナウシカさんでいいんですかね?(笑)
それはいいんですが、甘えって突き詰めて考えてしまうと、多くのことが甘えに思えてしまうんですよね、僕の場合。
例えば、僕はブログランキングに参加させてもらっているのですが、正直、押してもらうように媚びる態度(押してね〜。みたいな記述)も完全な甘えだと思います。人に何かを頼む、それがどうしても甘えに思えます。でも世の中には、そうしないと自分が満足できない状況や、心の平穏を得られないことも往々にしてあります。
で、甘えを持ってもいいかなぁと思えるボーダーとして、僕自身は相手にそれほど負担でなく、自分が甘えを必要としている、というものを持っていて、やはりそれにはそれが妥当か否か「考える」ことが大事になります。
ナウシカさんのおっしゃる通り、たぶんこれは確かに甘えだと思いますが、甘えだからと言ってなんでも拒否していたら、人生辛いだろうな〜、とも思ってしまいます。
まとまりのない文ですいませんでした。