僕は基本的に根暗な方なので、根暗らしくよく書物を読む。

かつて(高校時代)は小説ばかり読んでいたのだが、
最近はどういう風の吹き回しか、新書や一般の評論をカテゴリーを選ばず乱読するようになった。

例えば今年になって、進化論の本も読んだし、社会史の本も読んだし、哲学書も読んだし、勿論小説も読んだ。

そんな僕はかつて思っていた。

「哲学って、難しそうだし、なんか偉そうでムカツク」

思い込みで、別段に裏付けのある考えではなかった。
高校時代に図書室で著者が誰だったかは失念してしまったが、
ある哲学者の書いた本をちょこっと手にとって読んでみたところ、
日本語とは思えぬ難解な構文・表現加えてワケ分からん思想に参ってしまったところに直接の原因がありそうだと、今の僕は思っているが。



そんな頭の作りがヨロしくない僕もせっかく大学生になったのだから、哲学書でも読んでみますかね、と去年の夏に勃然と思い立ち、図書室で一冊の哲学書を借りて家でテロテロと読んでみたところ、
「ほっほーん。なるほど。スルメのような味わいがありますねえ。」
などとふざけた感想を持った。

それ以来、ちょくちょくと哲学書は読むようになった。

その面白さは、常に自分との対話が必要なところにあると思う。
客観視して哲学書を読む事は困難だと自分は信じている。

というのも、基本的に哲学書には「人間のあり様」が「極めて正確であるように」描かれていて、(ここは僕の体験で書いていて、実際は違うのかもしれないけれど。)その正体と真摯に向き会おうとすると、自ずと人間像を思い浮かべる必要がでてくる。

そこで生身の・本物の人間を自分以外の誰かを知っているか、
と言えば僕は「知らない」。

そういう意味で自己との対話・直面が必須になるのだが、
その作業が時に辛く、惨めで、愕然とする事も多いのだがその分、自己克服になり快感を感じるのだ。

無論、意味をとり間違えないように正確に著者の意図を取り込むのは僕の頭では至極困難で、頁は遅々として進まないのだが、
その文、一行一行が血肉となってゆく感じがして心地よく、
またその分自己と直面する時間が長くなり、快感をきちんと得られる。

生きるとはそもそも何なのか。
生きる上で、一体何が大事なのか。
我々は何を「幸福」として生きて行けばよいのか。

僕は自己と著者との対話と自己と自己との対話の中で、
上記の問いの答えを今もなお探している。

哲学の海は果てなく広いが、
その恵みもまた海と同様、計り知れないものがある。





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