比較的よく聞く会話として、
「君はSとMどっちやの?」
というものがある。



私はこの会話に深い知的欠乏感を感じずにはいれれない。
ちょうど、血液型の話題と共通したものを感じる。


元来、SMというのは事実として肉体的なものである。
無論、肉体的な殴打・しばきのみのSMは極めて初歩的なレベルのそれであるが、
あくまで肉体的な苦痛・快感が「精神」への橋渡しとなるのであって、肉体を等閑にしてはいけない。

私たちはしばしば肉体を無視してSMの「精神的側面」のみをステレオタイプで認識しがちである。

●責めるのが好きだから私はSね。
●受身の性格ゆえ、あっしはMでごわす。

これは完全な思考停止状態の認識であり、
SMの世界はその様なシンプルなものではない。


我々はしばしば上記のような簡潔な猿でも分かる判断に基づき自他をSかMかに決定する。



彼らに欠如しているのは、
「SかMかとは選ばれた人間しか持ちえないものである」
という重大な認識である。



しばしば誰にでもS性やM性を持ち合わせているような議論が巷で繰り広げられるが、それは極めて低次元のそれだと言わざるを得ない。



SMとは我々の想像を超えてもっと特殊なものなのである。

例えば、一般的にスカトロジーやボンテージ(緊縛)、ペドフィリア(小児性愛)、老人性愛と聞けば嫌悪感を示す人も少なくないかもしれない。

だがSかMかという議論は別なのだ。
我々はSMも同じように「異常性を感じさせる性的嗜好」(性的嗜好の異常性についての議論は後日詳しくするのでお楽しみに☆)であることを知る必要がある。


ではどうSMが異常性を感じさせるか、
これについて書いていこう。



●プレイが極めて異常(であることがしばしば)


SMと聞いて何を連想するだろうか。
ある人は鞭、ある人は蝋燭、ある人は浣腸器、ある人は繩を想像するかもしれない。

問題は、そのようなモノを「本来の性交においては不要なものを(主に)異性をしばきまわすために、また痛めつけられるためわざわざ嬉々として使用する事である。」

あなたは自分の恋人を殴って勃起するであろうか?
あなたは自分の恋人に浣腸させられて濡れるであろうか?


これに首肯できる人はごくごく僅かであろう。

もし仮にみんながみんな上述した事に「イエス!」と頷くならば薬局にはオカモトコンドームと共に蝋燭や鞭や浣腸器が鎮座ましましておかねばならないが、事実はそうではないのだから、この「殴って・殴られて勃起する人は少数である」という説には多少の論理的裏づけがあると私は信ずる。



●「責める・責められる」の関係はSとMの関係ではない。



つまり、多くの人間はSMが何たるかさえ分かっていないのだ。
実際にしたことも無いのに、ただただ紋切り型の「責める・責められる」といった思考パターンに自他を投影させていただけに過ぎない。


「責める・責められる」の関係は表面的にSとMを見ればそれは正しく思えるかもしれない。
しかしここまで読み進めてきた読者の皆さんならば当然のように理解できると思われるが、
「それは決してSMではない。」

「責める・責められる」の関係は
ただの乱暴者と受動者の構図に自他を投影させているに過ぎず、そこに性的昂奮がないという点と支配感・恥辱感を好むという視点が抜け落ちている点において決してSMの関係と同じにはならない。


我々は安易にドSとかドMとか言いがちである。

しかしその様は高校数学しかできないくせに、
相対性理論を理解し切った顔をしているマセガキの滑稽さとよく似ている。








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