近頃の僕ときたらキングオブ屑、チンカスにたかる細菌のような屑っぷりで、一日中家に引き篭もってニート界の天帝・永井先生の動画を観賞したり、自堕落なオナニーをしたり、自炊するのも面倒だからコンビニ弁当をむしゃむしゃ食べたり、そのゴミをゴミ収集日に出さず、そのまま床に撒き散らして放置したり、風呂に入らなかったり、夕方の6時頃に起床したりと、親が聞いたら1秒でブチ切れそうな怠惰っぷりであります。
こんな廃人のような生活を送っていると、どういうわけかこれに慣れてしまんですね。
「ここから動きたくない!トイレットに行く事すら煩わしい!なんなら漏らすよ」
といったニート精神に満ち溢れ、このまま何の価値も生産しない生活を送るのも悪くない…なんて本気で思えてくるから愉快です。
思うにやっぱり何事も慣れ、というか環境次第で大方の事は決まってしまいますね。
僕もそこそこ忙しい時期はありました。その時はシコシコ動いていてそれに充実感なり何なりを感じていて、その生活に愛着はありました。
それは僕を取り巻く環境が、僕をそうさせたのであって、決して僕自身が能動的にその生活を愛そう、としたわけではありません。
ただ、気付いたら「そこそこ忙しいけど、これはこれでエエね。」
といった境地にいたわけです。
翻って今。
腐った廃人丸出し生活も、
「楽でエエね。なんか退屈やけれども」
と思うんですね。
同じ人間が思う事は、
環境が違っただけでこれほどまで違う。
ここで思うのは、長い環境にいればそこに適応して行くように人間は作られているんだなあ、ということ。
そして今をそれなりに愛そうとする考えが生まれるということ。
例えば仕事。
僕の友人の中には
「決して働きたくない!なにがなんでも、だ!」
と豪語する者もあれば、
「早く職に就いて自由に使える金を増やしたい」
と仰る方もいる。
だいたいにおいて前者(働きたくない宣言の人)はおかれている環境は自堕落で、それほど努力の必要のない場所だと思う。
しかし仕事というのは現状とは正反対の場なわけで、
毎日決まった時間に出社し、シコシコ働き、夜遅くに帰宅する。
今の気楽で気ままでいい夜な生活に馴染んだ人は、
環境の変化をイメージできない。
気楽であることが至上である、という単一の価値観を妄信する場合、
仕事という気楽とは180度反対の責任と重圧の場はとんでもなく苦痛の世界に思えてしまう。
仕事での充実やそれに付随するメリットは確かに存在するだろう。
ある人は仕事をやってみて、思いのほか社会貢献している事を実感できて嬉しくなるかもしれない。
またある人は自由に使える金が増えて、余暇を充実できるかもしれない。
またある人は仕事そのものに興味をもつかもしれない。もしかしたら充実感なんて全く無くてただただ苦しいだけかも分からん。
しかしそれすらも、やってみなければ解らない事なのである。
我々学生のような職なし人間にっては「社会貢献?アホか!」とか「金?そんなことよりユックリ生活したいんじゃ!」という考えも生まれがちだろう。
しかし、一度働いてみたらその考えも変わるかもしれない。
冒頭で言ったように人間は(正確には人間だけでなく生物は)
環境に適応していく。
こう言うと、
「なかには適応しきれずに淘汰されてゆく生物もある。きっと俺はそうなんだろう」
と諦念に駆られる者もあるかも知れないが、それは甘えだ。
環境を変えられるほどの強大な力など到底持ちえない矮小な一市民としての我々は、与えられた環境でそこに適応するしか出来る事は無い。
ましてその環境にダイブすらせず、飛び込み台の上から
「コワいよー、コワいよー」
と泣き叫んだところで、それは臆病だと言われて仕方ないだろう。
我々(特に自堕落な)学生に今現実的に出来ることと言えば、たぶん好きな職種を探すことくらしかない。それで、少しでも仕事(環境の変化)へのネガティブなイメージを払拭する事くらいだろう。
読み返すと、屑のくせに随分にえらそうですね。ごめんなさい。
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こんな廃人のような生活を送っていると、どういうわけかこれに慣れてしまんですね。
「ここから動きたくない!トイレットに行く事すら煩わしい!なんなら漏らすよ」
といったニート精神に満ち溢れ、このまま何の価値も生産しない生活を送るのも悪くない…なんて本気で思えてくるから愉快です。
思うにやっぱり何事も慣れ、というか環境次第で大方の事は決まってしまいますね。
僕もそこそこ忙しい時期はありました。その時はシコシコ動いていてそれに充実感なり何なりを感じていて、その生活に愛着はありました。
それは僕を取り巻く環境が、僕をそうさせたのであって、決して僕自身が能動的にその生活を愛そう、としたわけではありません。
ただ、気付いたら「そこそこ忙しいけど、これはこれでエエね。」
といった境地にいたわけです。
翻って今。
腐った廃人丸出し生活も、
「楽でエエね。なんか退屈やけれども」
と思うんですね。
同じ人間が思う事は、
環境が違っただけでこれほどまで違う。
ここで思うのは、長い環境にいればそこに適応して行くように人間は作られているんだなあ、ということ。
そして今をそれなりに愛そうとする考えが生まれるということ。
例えば仕事。
僕の友人の中には
「決して働きたくない!なにがなんでも、だ!」
と豪語する者もあれば、
「早く職に就いて自由に使える金を増やしたい」
と仰る方もいる。
だいたいにおいて前者(働きたくない宣言の人)はおかれている環境は自堕落で、それほど努力の必要のない場所だと思う。
しかし仕事というのは現状とは正反対の場なわけで、
毎日決まった時間に出社し、シコシコ働き、夜遅くに帰宅する。
今の気楽で気ままでいい夜な生活に馴染んだ人は、
環境の変化をイメージできない。
気楽であることが至上である、という単一の価値観を妄信する場合、
仕事という気楽とは180度反対の責任と重圧の場はとんでもなく苦痛の世界に思えてしまう。
仕事での充実やそれに付随するメリットは確かに存在するだろう。
ある人は仕事をやってみて、思いのほか社会貢献している事を実感できて嬉しくなるかもしれない。
またある人は自由に使える金が増えて、余暇を充実できるかもしれない。
またある人は仕事そのものに興味をもつかもしれない。もしかしたら充実感なんて全く無くてただただ苦しいだけかも分からん。
しかしそれすらも、やってみなければ解らない事なのである。
我々学生のような職なし人間にっては「社会貢献?アホか!」とか「金?そんなことよりユックリ生活したいんじゃ!」という考えも生まれがちだろう。
しかし、一度働いてみたらその考えも変わるかもしれない。
冒頭で言ったように人間は(正確には人間だけでなく生物は)
環境に適応していく。
こう言うと、
「なかには適応しきれずに淘汰されてゆく生物もある。きっと俺はそうなんだろう」
と諦念に駆られる者もあるかも知れないが、それは甘えだ。
環境を変えられるほどの強大な力など到底持ちえない矮小な一市民としての我々は、与えられた環境でそこに適応するしか出来る事は無い。
ましてその環境にダイブすらせず、飛び込み台の上から
「コワいよー、コワいよー」
と泣き叫んだところで、それは臆病だと言われて仕方ないだろう。
我々(特に自堕落な)学生に今現実的に出来ることと言えば、たぶん好きな職種を探すことくらしかない。それで、少しでも仕事(環境の変化)へのネガティブなイメージを払拭する事くらいだろう。
読み返すと、屑のくせに随分にえらそうですね。ごめんなさい。
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コメント
今度屑談義でもしましょう^^
うんこ食いてえ!