【2】
伊集院吉蔵は三日ぶりに帰宅した。出版会社に勤める吉蔵は入社2年目の新人だったが校正が大の苦手で、苦心の末に上司に提出したゲラも、毎回のように真っ赤になって返却されていた。その様はトマトがゲラ刷りの上でぐちゃりと潰れているような、凄惨たるものであったため吉蔵はゲラが気の狂ったような上司の罵声と共に手元に戻ってくるたびに悪寒と怯えと焦りと諦念に苛まれた。
今回の校正作業もいつもどうりに同期の5倍ほどの時間を費やした。作業が終わらない限り帰宅できないので、この二日間吉蔵は会社のソファで汗を吸いつくし、恐ろしい臭いを発している自前の毛布に包まって寝た。そんな努力の末に最終的に上司から校了をもらった時、吉蔵はあまりの達成感に涙した。
帰宅後、彼はいつもどおり殺人的な声量でアイゴーと叫び、溜まったストレスを発した。吉蔵は朝鮮人ではないがアイゴーという言葉の響きが好きだった。哀愁を素直に表現したその言葉を発すると、どういうわけか哀しみが外へと拡散される気がするのだ。吉蔵はアイゴーに感情を移入し過ぎて、ときおり目じりに熱い涙をたたえることも間々あり、実際彼の眼はウサギの眼ように真っ赤に充血していた。彼の叫びは満月の崖の淵で孤独な狼が遠吠えをする哀しさも象徴していたし、夜鳴きする赤子のような煩わしさも象徴していたし、戦場で相打ち覚悟で特攻する侍の悲壮さも象徴していた。あらゆるものを内包したその叫び声は人によってはガイゴーと聞こえたし、ヴァイボーとも聞こえたし、ジャイコーとも聞こえた。要するに、言葉になっていなかったのである。喉よ裂けろと言わんばかりのその咆哮は限りなく動物的であった。
またその叫びはストレスの度合いによって叫ぶ回数は変わる。その日、彼は実に38回アイゴーと叫んだ。近所の犬は何事かと怯えて小屋で丸まり、家の近くの通りを歩く小学生は恐怖のあまりおしっこを漏らし本能的に防犯ブザーを鳴らし、あたりは一時騒然となったが吉蔵はそんなことと無関係に動物的な叫びを発し続けた。
38回目のアイゴーが終わった後、吉蔵は涙をぬぐい、オナニーをしようと思った。なにしろこの三日間男子トイレでフライデーのグラビアで抜く、という前近代的なそれをしていたので、早くビデオで抜きたくて仕方なかったのである。それに、と彼は思った。
この前買ってきたばかりのオナホールがある。
オナホ界の伝説と謳われる「東京名器物語」である。使用したもの全員がその快感のあまり感涙してしまうと言われるそのオナホでオナニーする事だけを楽しみとしてこの三日間の苦行に耐えた。上司の罵倒、真っ赤なゲラ、それらを我慢できたのもこの伝説の名器の存在のおかげだった。東名でオナニーできる、そう考えただけで吉蔵は生きる勇気がむくむくと膨らみ、仕事も張り切ろうと考えられたのである。
ウキウキ気分で机の引き出しを開けると、そこには絶望があった。確かに机の一番上の引き出しに希望の塊東名を入れたはずなのに、なぜかそれがないのである。思わず彼はアイゴーと叫んだ。殺人的咆哮をした後、彼は冷静になり、なぜなくなったのかと考えたところ、ひとつの結論に達した。いや正確に言うなら既に分かっていたことだが認めたくないので目を逸らした正解に落ち着いて向いあった、という表現の方が正しい。
その正解とは、弟が盗んだ、である。弟の万蔵は彼の机をまさぐる癖があり、以前かっこいいからという理由だけで机に入れておいたバイクの鍵を盗られたこともあったし、書きかけのloveレターにまんこマークをサインペンで書かれた事もあった。そういう事もあって机には鍵をするようにしたが、それでも無駄で万蔵は針金かなにかを使って必ず鍵を開けた。吉蔵は何度も鍵を変えたがそのたびに万蔵は開錠するので、これはもう無駄だと思い、施錠を諦めた。
もちろん机のものを勝手に盗む事を兄の吉蔵は弟の万蔵に何度も何度もそれこそ100回以上はやめろと怒鳴り、殴り倒して理解させようと努力して来たのだが、どうやら万蔵は自分の物と人の物との区別がつかないようで、学校でも平気で人の物を使用したり取ったリして問題になっていた。
酷かったのは小学校時代の音楽の時間だ。その日クラスはリコーダーの練習をしていた。万蔵は自分のリコーダーがあるにもかかわらず気分だけでクラスのマドンナ的存在のヨーコのリコーダーを奪い、ピューピューと吹き出した。ヨーコは万蔵が怖くて何も言えず、えんえんと泣き始め、女教師はこら伊集院君、人のリコーダーをとったら駄目でしょ、と叱ったが万蔵は平然と「ヨーコちゃんの口ね、ちょっとね、臭いね」と言い放ち、傲然と演奏を続けた。ヨーコはショックのあまり一時泣くのをやめ、呆然としたがやがて哀しみの大波が彼女を覆い、うわああんと一層大きな声でなき始めた。ヨーコのファンの男の子が、万蔵、やめろ!と頭を殴ったがそれでも万蔵は「ヒロシ君には、渡さない」とわけのわからないことを叫びながら、執拗に演奏を続けた。結局彼は授業の終わりを知らせる鐘がなるまで誰のどんな説得にも目もくれず、ずっとヨーコのリコーダーを吹き続けた。その後彼の母は学校に呼び出され、話し合いの場が設けられたが、アホな教師とアホな主婦に根本的な原因などわかるわけもなく、教師がしっかりと躾をお願いします、と言って、母が学校の教育も足りてないのではないか、という馬鹿馬鹿しいやりとりが行われただけであった。
その報告を母から聞いた兄の吉蔵は直感的にこれは病気だと思ったが、弟が精神病だと認めるのは心苦しいので黙っていた。
その精神的に常人とは著しく違っている弟が兄のとっておきの希望である東京名器物語を盗んだ事実に対し、吉蔵は多少の諦めもあったが、それ以上に憎しみがメラメラと沸きあがってきた。彼はアイゴーと叫び、弟の部屋へと駆け込んだ。自分の希望を取り返すために、自分の希望を奪った弟を痛めつけるために、兄吉蔵は怒りの火の玉となり弟万蔵の部屋に飛び込んだのである。
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伊集院吉蔵は三日ぶりに帰宅した。出版会社に勤める吉蔵は入社2年目の新人だったが校正が大の苦手で、苦心の末に上司に提出したゲラも、毎回のように真っ赤になって返却されていた。その様はトマトがゲラ刷りの上でぐちゃりと潰れているような、凄惨たるものであったため吉蔵はゲラが気の狂ったような上司の罵声と共に手元に戻ってくるたびに悪寒と怯えと焦りと諦念に苛まれた。
今回の校正作業もいつもどうりに同期の5倍ほどの時間を費やした。作業が終わらない限り帰宅できないので、この二日間吉蔵は会社のソファで汗を吸いつくし、恐ろしい臭いを発している自前の毛布に包まって寝た。そんな努力の末に最終的に上司から校了をもらった時、吉蔵はあまりの達成感に涙した。
帰宅後、彼はいつもどおり殺人的な声量でアイゴーと叫び、溜まったストレスを発した。吉蔵は朝鮮人ではないがアイゴーという言葉の響きが好きだった。哀愁を素直に表現したその言葉を発すると、どういうわけか哀しみが外へと拡散される気がするのだ。吉蔵はアイゴーに感情を移入し過ぎて、ときおり目じりに熱い涙をたたえることも間々あり、実際彼の眼はウサギの眼ように真っ赤に充血していた。彼の叫びは満月の崖の淵で孤独な狼が遠吠えをする哀しさも象徴していたし、夜鳴きする赤子のような煩わしさも象徴していたし、戦場で相打ち覚悟で特攻する侍の悲壮さも象徴していた。あらゆるものを内包したその叫び声は人によってはガイゴーと聞こえたし、ヴァイボーとも聞こえたし、ジャイコーとも聞こえた。要するに、言葉になっていなかったのである。喉よ裂けろと言わんばかりのその咆哮は限りなく動物的であった。
またその叫びはストレスの度合いによって叫ぶ回数は変わる。その日、彼は実に38回アイゴーと叫んだ。近所の犬は何事かと怯えて小屋で丸まり、家の近くの通りを歩く小学生は恐怖のあまりおしっこを漏らし本能的に防犯ブザーを鳴らし、あたりは一時騒然となったが吉蔵はそんなことと無関係に動物的な叫びを発し続けた。
38回目のアイゴーが終わった後、吉蔵は涙をぬぐい、オナニーをしようと思った。なにしろこの三日間男子トイレでフライデーのグラビアで抜く、という前近代的なそれをしていたので、早くビデオで抜きたくて仕方なかったのである。それに、と彼は思った。
この前買ってきたばかりのオナホールがある。
オナホ界の伝説と謳われる「東京名器物語」である。使用したもの全員がその快感のあまり感涙してしまうと言われるそのオナホでオナニーする事だけを楽しみとしてこの三日間の苦行に耐えた。上司の罵倒、真っ赤なゲラ、それらを我慢できたのもこの伝説の名器の存在のおかげだった。東名でオナニーできる、そう考えただけで吉蔵は生きる勇気がむくむくと膨らみ、仕事も張り切ろうと考えられたのである。
ウキウキ気分で机の引き出しを開けると、そこには絶望があった。確かに机の一番上の引き出しに希望の塊東名を入れたはずなのに、なぜかそれがないのである。思わず彼はアイゴーと叫んだ。殺人的咆哮をした後、彼は冷静になり、なぜなくなったのかと考えたところ、ひとつの結論に達した。いや正確に言うなら既に分かっていたことだが認めたくないので目を逸らした正解に落ち着いて向いあった、という表現の方が正しい。
その正解とは、弟が盗んだ、である。弟の万蔵は彼の机をまさぐる癖があり、以前かっこいいからという理由だけで机に入れておいたバイクの鍵を盗られたこともあったし、書きかけのloveレターにまんこマークをサインペンで書かれた事もあった。そういう事もあって机には鍵をするようにしたが、それでも無駄で万蔵は針金かなにかを使って必ず鍵を開けた。吉蔵は何度も鍵を変えたがそのたびに万蔵は開錠するので、これはもう無駄だと思い、施錠を諦めた。
もちろん机のものを勝手に盗む事を兄の吉蔵は弟の万蔵に何度も何度もそれこそ100回以上はやめろと怒鳴り、殴り倒して理解させようと努力して来たのだが、どうやら万蔵は自分の物と人の物との区別がつかないようで、学校でも平気で人の物を使用したり取ったリして問題になっていた。
酷かったのは小学校時代の音楽の時間だ。その日クラスはリコーダーの練習をしていた。万蔵は自分のリコーダーがあるにもかかわらず気分だけでクラスのマドンナ的存在のヨーコのリコーダーを奪い、ピューピューと吹き出した。ヨーコは万蔵が怖くて何も言えず、えんえんと泣き始め、女教師はこら伊集院君、人のリコーダーをとったら駄目でしょ、と叱ったが万蔵は平然と「ヨーコちゃんの口ね、ちょっとね、臭いね」と言い放ち、傲然と演奏を続けた。ヨーコはショックのあまり一時泣くのをやめ、呆然としたがやがて哀しみの大波が彼女を覆い、うわああんと一層大きな声でなき始めた。ヨーコのファンの男の子が、万蔵、やめろ!と頭を殴ったがそれでも万蔵は「ヒロシ君には、渡さない」とわけのわからないことを叫びながら、執拗に演奏を続けた。結局彼は授業の終わりを知らせる鐘がなるまで誰のどんな説得にも目もくれず、ずっとヨーコのリコーダーを吹き続けた。その後彼の母は学校に呼び出され、話し合いの場が設けられたが、アホな教師とアホな主婦に根本的な原因などわかるわけもなく、教師がしっかりと躾をお願いします、と言って、母が学校の教育も足りてないのではないか、という馬鹿馬鹿しいやりとりが行われただけであった。
その報告を母から聞いた兄の吉蔵は直感的にこれは病気だと思ったが、弟が精神病だと認めるのは心苦しいので黙っていた。
その精神的に常人とは著しく違っている弟が兄のとっておきの希望である東京名器物語を盗んだ事実に対し、吉蔵は多少の諦めもあったが、それ以上に憎しみがメラメラと沸きあがってきた。彼はアイゴーと叫び、弟の部屋へと駆け込んだ。自分の希望を取り返すために、自分の希望を奪った弟を痛めつけるために、兄吉蔵は怒りの火の玉となり弟万蔵の部屋に飛び込んだのである。
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コメント
まるでガチンコオナホクラブですね^^
リピーターになったりね。くれぐれもカップヌードルではry