オナホ物語3

2007年10月15日 連載
黄昏に染まる渋谷。乱立したビルの窓を黄金の光が反射し街全体に深い陰影を作り出す。西の空は赤く燃え全ての物に終わりがある事を無言で告げる。

リクルートスーツに身を包んだ伊藤陽子は信号を待ちながら夜の訪れを頬で感じつつ、終わりのない絶望感に全身を支配されていた。この赤信号もいずれは青になるだろうし、この赤い空もいつかは漆黒となるだろうし、この無尽蔵に思える人波も時間が来れば多少は減少を見せるであろう。しかし、私の就職活動はいつになったら終わるのだろう…。

彼女は今大学4年生で未だ内定をもらえず、秋採用に決死の挑戦をしている。思えば去年のスタートが悪かった。同輩の女の子や周りの男に「ヨーコちゃんはかわいいからすぐ内定もらえるだろうなあ、いいなあ」などとおだてられ、内心満更でもなかった陽子は、そうか可愛かったら内定もらえるんだ、そりゃそうよね、ブスなんかより私みたいな美人の方が会社にいても華が出るだろうし、女なんて結局顔だもんね、などと安心しきっていた。事実彼女は子供の時からかわいいかわいいと言われて育ってきた。小中高大と男の人にチヤホヤされ続け、ナンパも数え切れないほどされた。ある男とバーに行ったとき、彼はこう彼女を口説いた。
「陽子に逢ってから、カフカを再読するようになったんだ。君の事を考えるとあらゆる事が全て無意味に思えてきて、圧倒的な不条理を僕は体感してしまうんだ。それほど君には魔力がある。僕を、男を魅了する魔性があるんだ」

結局4月になるまでリクナビにも登録せず、企業説明会にも足を運ばず、挙句春休みは悠々とバイトで貯めた金でイギリスにホームステイしていた。

ホームステイから帰ってきた陽子は内定をもらっている友人がいることに驚愕こそしたが、危機感は全くなかった。こののマスクさえあれば、どこでも私の採ってくれる。そう信じる彼女にとって怖いものなどなかった。
陽子は四月から本格的に就職活動を始めた。しかしなぜだろう、彼女の行きたい業界、具体的に言えば出版業界のほとんどの企業はすでに募集を終えていた。幾つかの出版社こそ残っていたがどこも中小企業だった。陽子は例えば講談社とか小学館とか集英社とかマガジンハウスといった大手を希望していて、彼女の目には残った出版社はどれもバーゲンセールで売れ残ったまったく魅力のない下品な洋服のように映った。

そういった経緯もあり、陽子は就職に対するモチベーションが一気に低下し、それからゴールデンウィークまでリクナビから送られてくるメールをだらだら眺めながめ、どこもパッとしないわ、と悲嘆に暮れる生活が続いた。時折耳に入る友人の内定の報告に胃を刺激させられる危機感を感じつつも、何の行動も起こさなかったのは心の拠り所にあったのは、私は美人だから絶対に何とかなるに違いない、という確固たる信念だった。

ゴールデンウィーク中、陽子はリクナビで見つけた企業の面接に出向いた。ブライダル・ウエディング関連の会社だった。華やかそうだという第一印象だけで決めた。

その面接ではグループディスカッションが行われた。5人で1組になって一つの議題に対して討論する、という形式である。陽子は面接が始めてということもあり、議題に対してどう考えるのか解らないし、周りの就活生はみな鼻息荒く議論しているのに気後れして、とりあえずといった感じでニコニコとしていた。後日、当然のように不合格のメールがきた。しかし陽子はそれに憤慨した。私のような美貌を兼ね備えたお淑やかな人材を一時面接なんかで落とすなんて、なんて呆れた会社なんだろう、本当にあそこの人事は人を見る眼がない、と毒づいてその晩、セックスフレンドのタカシと貪るようなセックスでフラストレーションを発散した。

それ以来、陽子は何社か面接に向ってみこそするものの、肝心要の面接で頭が真っ白になったり、頓珍漢な発現をしたりとまったくうまくいかず、そのままズルズルと秋まで就職活動が長引いてしまっている。通常、ここまで面接に失敗するならばそれなりの対策を立てるものである。例えば面接のハウツー本を買って読むなり、友人の助言を仰ぐなり、セミナーに赴くなり、方法は幾らでもある。しかし陽子はそれをしなかった。その理由は、陽子は人事にありのままの自分を見てもらいたい、多少失敗しても顔でカバーできるはずだ、と信じていたからだった。言うまでももなくとんでもなくアホの考えで、誰しも自分を今の自分よりも良くみせるために嘘をついたり、誇張表現を用いたり、ハウツー本で即席の知識を身につけたりしている。要するに、着飾っているのだ。大学生の皆が皆大人が驚愕するような知識や立ち回りや経験を持っているわけがなく、それも人事はよく承知している。それを誤魔化していかに自分を売り込むかが当たり前の処世術であり、多少の嘘など誰も気にはしない。それを否定し無駄なまでに自己を貫く事に拘泥することは就職活動という騙しあいの場では決定的な不利益を招く。陽子はそのことに薄々は気付いていたが、己のポリシーを優先させた。今まで甘やかされて生きてきた人間が妥協を理解するのは難しいことだった。

そんな甘えん坊の陽子は今日の面接の出来を回想していた。すぐに真っ黒な靄が胃にかかり、陰鬱な気分になるのが分かった。今回はメーカーの事務の一対一の面接形式だったのだが、人事の質問にうまく回答ができなかった。そもそもその会社を選んだ理由が、家の近くに職場があるので電車に乗らずに済むから、という一点だけだったので、「当社のどこにひかれましたか?」と聞かれても流石に「自転車こいで行けるから」とは言えないので微笑みを保ちつつ沈黙し続け、最後に「社風がよろしゅうございました」などとわけのわからぬことを口走ってしまい、人事に怪訝な顔をされてしまった。その後も「学生時代に打ち込んだ事はございますか」と聞かれ、まったくなかったので頭が真っ白になってしまい「ナスにはポン酢」と、これまた意味不明のことを口に出してしまった。

信号が青に変わる。陽子は歩きつかれた足を休めるため横断歩道渡って少し歩いたところに位置するマクドナルドに寄ろうと思った。

トレイにホットティーMとポテトSを乗せ、カウンター型の席に座る。窓からは渋谷の界隈を練り歩く若者がよく見える。彼ら全員が楽しそうで、どこか寂しげでもある。行き場と帰り場を探す若者はどこまでも自由な感じもするし、逆にそうやって自分をどこでもない、どこかどうでもいい所に置いておかねばならない、という形のない義務に駆られている感じもする。
私も一緒なのかもしれない。面接に際し特に対策も立てず、漫然と就職活動というレールの上を歩いている。自由に受験し、自由に面接に答え、自由に今の自分を肯定する。その行動それ自体にさほどの疑問はない。ただ、漫然とレールの上を歩いている、そんな感じだ。就職活動をし始めたからと言って、人間はかわらない。おそらく就職してビジネスウーマンとなっても、結婚して退職しても、子供が出来ても、私はさほど変わらないのではないだろうか。変わるのはレールが導く景色の変化だけで。

燃える空は煤に汚されるように、黒く染まり始めた。ポツポツと淡い光を発し始める街灯とドぎついネオンが闇の侵蝕に対抗する。永遠を叫ぶ街、渋谷。それは陽子の心の奥底に眠る願望、変わりたくない、このまま学生でいたい、美貌をいつまでも保持していたい、といったものを象徴しているようでもある。紙コップを両手で包み込むようにしてホットティの温かみを感じつつ、眼前に広がる街を眺めながら陽子は思った。変わり行くものだからこそ、意志を感じさせるものがあるからこそ、全ては美しく、かけがえのないものに思えるのだと。

映り行く景色を眺めていると、不意に尿意が陽子を襲った。近くにあったトイレに入ると、二つの個室のうち奥の一つが埋まっていた。誰かが使っているのだろう。手前側の個室に入り、ストッキングをシュルリという心地よい音を響かせて脱ぎ、スカートとパンティを一緒におろす。
ふと、隣から異音が聞こえた。ポコポコと空気が抜けると、グチョグチョと何かヌルヌルしたものが擦れる音が聞こえてくるのだ。よーく耳を澄ませてみると、はあはあ、という息遣いまで聞こえてきた。陽子は目を丸くし、はっとイキを飲んだ。なんとその声は男性の声だったのだ。なぜ…、陽子は頭が真っ白になりかけたが、なんとか気を保った。これからどうするか、建設的に考えよう、店員に言いつけるのが一番だろうか、そのままこの場から立ち去ろうか、パニックを落ち着かせようと深呼吸しながら逡巡していると、
隣の個室からピピーという携帯電話の着信音が響き、うおあっ!という紛れもない男性の事が轟いた。

ひゃっ!と陽子は声に出してしまった。次に本能的にこのままここにいると危険に晒されると察知し、ストッキングをずり上げ、スカートトパンティを乱暴に着なおした。しかし時既に遅し。ガチンと開錠の音がトイレ中に響き、陽子の選択肢はその場にいることだけとなってしまった。女性用トイレで奇妙な行為をしている男性の前に姿を晒す勇気はない。誰か他の人がきてくれるか、彼が外にでていってくれるか、彼女が恐怖から逃れる方法は結局他人任せの方法しか思い浮かばなかった。






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