電車の中吊り広告にショッキングなの見出しが踊る。
アキバ系〈24歳〉ゲーマー〈土浦8人連続無差別殺傷〉「逃亡100時間」全情報
この見出しの他には彼が無類のゲーム好きである事を臭わす文章を並べ、かつゲームが好きであるからこそ、この様な猟奇的な犯罪を企てたと言わんばかりの論調であった。
週刊文春の記事は読んでいないし、読む価値すらないと思っているので、以下の文章は「見出し」についての私の見解である。
まず、ゲーム好きであることと殺人を犯すことは無関係であると私は主張したい。
おそらく若い連中(〜30才くらい)でゲームをした事のない人間はいないだろうし、ゲームに熱中する若者なんていくらでもいる。
また、程度の問題などと言い出す人もいるかもしれないが、それも違う。ゲームをすればするほど現実社会と仮想の社会の区別がつかなくなるような人間は、例えば映画を観ても、小説を読んでも同じような感覚を持つかもしれない。「なぜゲームなのか」と言う点を科学的に解明しないかぎり、ゲームは絶対に犯罪の誘因たりえない。
ゲーマーだからと言ってあたかも「変質者」であるような印象操作をする事自体が非論理的なのである。
いや、非論理的どころの話ではない。有害な印象操作である。
なぜか。
アホは勘違いしてしまうからだ。
「ゲームとアキバ系だったからやったんだ、ダメだよね、ゲームとアキバは」
などとアホは安心し、そしてその屑のような雑念の残滓は彼彼女の脳裏にじっとこびりつき、そして時を迎えればその残滓が水を得た魚のように躍りだすに違いないからである。
例えば日常会話の中で以下のようなやり取りがなされるかもしれない。
男「最近ゲームにハマっててさあ、最高だよね、スト2って!」
女「え!?ゲームとかやってんの…?まじ…?あ、あたし、ちょっと用事あるから、ばいばい!」
男「えっ?あ、麻美ー!!」
確かに極端な例ではあるが、深層心理に「ゲーム=悪」といった構図を抱かせる可能性が今回話題の見出しにはあり、それが日常の何気ないコミュニケーションを阻害したり、良識ある(私みたいな)ゲーマーは、自分の趣味を公言するのに場所と人をより一層吟味することを強要する。
これは、ストレスだ。まったく意味のない、ストレスである。
次に、なぜ今回のような見出しが掲載されたのかを考えてみる。
24歳の男が、凄惨な殺人事件を起こした。これは、確かに社会正義的な観点から見て許されざることである。
だが、それだけを見出しと、
「アキバ系ゲーマー、とんでもないテクを駆使して無差別乱入8人抜き!」という見出しとでは、インパクトがまったく違う。
アキバ系・ゲーマーこの単語の持つネガティブさを利用した、レッテルバリによる、安心と納得の創出。
これが彼らの行っていることだ。
アキバ系、ゲーマー、確かにネガティブな響きかもしれない。どことなく、暗く、引きこもりがちで、孤独で、童貞で、といったイメージが先行していることと思われる。
そのようなネガティブな人だからこそ、猟奇的な殺人を起こしやすい、という安易な決め付けはおそらく、多くの人に多少なりとも説得力を与えているのであろう。宅間守の例を持ち出すまでもなく、「オタク」という人種はどことなく犯罪と近いところに位置する人間だと認識されがちである。だからこそマスコミはこういった見出しを堂々とトップに飾り、またTVニュースでも被告を紹介する際、わざわざゲーム好きの何某が〜という修飾をするわけである。
そうして一般人は「納得」し「安心」する。
自分は違う、彼とはまったく違う人間だ、ああ良かったと。
このようなまったく的外れなカタルシスでも、ないよりマシだと考えがちになるのかもしれない。単一の共同体においては想像の及ばない差異こそが悪である。そして熱狂的なゲーマーは端的にその差異であり、つまり悪であり、日本人的思考から脱す事の出来ない人間にカタルシスを与え続ける。
今回の週刊文春の見出しにはこのように、まったく非論理的でこそあるが少なくとも共同体の輪を実感できるようなものとなっている。
大衆がニュースに求めるものは、正確性ではなく、どうも、安心感にあるようだ。
アキバ系〈24歳〉ゲーマー〈土浦8人連続無差別殺傷〉「逃亡100時間」全情報
この見出しの他には彼が無類のゲーム好きである事を臭わす文章を並べ、かつゲームが好きであるからこそ、この様な猟奇的な犯罪を企てたと言わんばかりの論調であった。
週刊文春の記事は読んでいないし、読む価値すらないと思っているので、以下の文章は「見出し」についての私の見解である。
まず、ゲーム好きであることと殺人を犯すことは無関係であると私は主張したい。
おそらく若い連中(〜30才くらい)でゲームをした事のない人間はいないだろうし、ゲームに熱中する若者なんていくらでもいる。
また、程度の問題などと言い出す人もいるかもしれないが、それも違う。ゲームをすればするほど現実社会と仮想の社会の区別がつかなくなるような人間は、例えば映画を観ても、小説を読んでも同じような感覚を持つかもしれない。「なぜゲームなのか」と言う点を科学的に解明しないかぎり、ゲームは絶対に犯罪の誘因たりえない。
ゲーマーだからと言ってあたかも「変質者」であるような印象操作をする事自体が非論理的なのである。
いや、非論理的どころの話ではない。有害な印象操作である。
なぜか。
アホは勘違いしてしまうからだ。
「ゲームとアキバ系だったからやったんだ、ダメだよね、ゲームとアキバは」
などとアホは安心し、そしてその屑のような雑念の残滓は彼彼女の脳裏にじっとこびりつき、そして時を迎えればその残滓が水を得た魚のように躍りだすに違いないからである。
例えば日常会話の中で以下のようなやり取りがなされるかもしれない。
男「最近ゲームにハマっててさあ、最高だよね、スト2って!」
女「え!?ゲームとかやってんの…?まじ…?あ、あたし、ちょっと用事あるから、ばいばい!」
男「えっ?あ、麻美ー!!」
確かに極端な例ではあるが、深層心理に「ゲーム=悪」といった構図を抱かせる可能性が今回話題の見出しにはあり、それが日常の何気ないコミュニケーションを阻害したり、良識ある(私みたいな)ゲーマーは、自分の趣味を公言するのに場所と人をより一層吟味することを強要する。
これは、ストレスだ。まったく意味のない、ストレスである。
次に、なぜ今回のような見出しが掲載されたのかを考えてみる。
24歳の男が、凄惨な殺人事件を起こした。これは、確かに社会正義的な観点から見て許されざることである。
だが、それだけを見出しと、
「アキバ系ゲーマー、とんでもないテクを駆使して無差別乱入8人抜き!」という見出しとでは、インパクトがまったく違う。
アキバ系・ゲーマーこの単語の持つネガティブさを利用した、レッテルバリによる、安心と納得の創出。
これが彼らの行っていることだ。
アキバ系、ゲーマー、確かにネガティブな響きかもしれない。どことなく、暗く、引きこもりがちで、孤独で、童貞で、といったイメージが先行していることと思われる。
そのようなネガティブな人だからこそ、猟奇的な殺人を起こしやすい、という安易な決め付けはおそらく、多くの人に多少なりとも説得力を与えているのであろう。宅間守の例を持ち出すまでもなく、「オタク」という人種はどことなく犯罪と近いところに位置する人間だと認識されがちである。だからこそマスコミはこういった見出しを堂々とトップに飾り、またTVニュースでも被告を紹介する際、わざわざゲーム好きの何某が〜という修飾をするわけである。
そうして一般人は「納得」し「安心」する。
自分は違う、彼とはまったく違う人間だ、ああ良かったと。
このようなまったく的外れなカタルシスでも、ないよりマシだと考えがちになるのかもしれない。単一の共同体においては想像の及ばない差異こそが悪である。そして熱狂的なゲーマーは端的にその差異であり、つまり悪であり、日本人的思考から脱す事の出来ない人間にカタルシスを与え続ける。
今回の週刊文春の見出しにはこのように、まったく非論理的でこそあるが少なくとも共同体の輪を実感できるようなものとなっている。
大衆がニュースに求めるものは、正確性ではなく、どうも、安心感にあるようだ。
コメント
つうかオタってほんと世間体悪い感じがする
ロリコンの変態という印象があるのだろうか
まあ、俺はロリコンの変態なわけだが
定義の欠落により、そこ(文章や会話)に恣意的な悪意を孕ませる者がいる事は事実だし、逆にそれらに対して必要以上に敏感になる者がいる事も事実だ。
いわゆる世間体や空気といった不文律は総じて定義が欠落している。そこにおいては「感じがする」などといったこれまた曖昧な感想が漏れる事は至極当たり前であり(恣意性のため)、ロリコンがどうとかいった理由は直接的には介在しない。ただ、オタクは’なんとなく’キモイというイメージがあるだけだ。丁度、刑法を知らない小学生が殺人はダメ、となんとなく分かっているように。
あと、
>まあ、俺はロリコンの変態なわけだが
自分で言っちゃうあたりがいかにも君らしい。