酔っ払って生きるという生き方
2010年12月15日 日常 コメント (2)最近はもう、酒なしに生きられない。
昔は自分がアル中になるなんて思ってなかった。俺の大学時代を知る人間は一様に、今の俺の酒の飲みっぷりに驚く。何しろ俺はグラスビール1杯でくらくらに酔っ払あっていた下戸中の下戸だったのだから。今は生中3杯までならグイグイいける。
大学時代の友人は語る。
「盛男、豪気な飲みっぷりになったなあ!」「しびれます、盛男さんのダイソンを思わせる飲み口にはしびれますわ」「ごめん、盛男の豪胆な飲みっぷり観てちょっと勃起した」など、様々な賛辞が贈られておる。
最近も家に帰ったら缶ビール1本くらいのもんは必ず飲む。
近頃はそれでは足りなくなって、バランタインファイネスト(スコッチウイスキー)を原液(ストレート)で飲んだりしている。
なぜ揃いもそろって、20の中頃を向かえた男は酒に溺れるのか。
俺の周りの人間も、だいたい酒飲んどるわ。酒に、飲まれとるわ。
とりあえず、今後数年間は飲みまくってみようかとも思ってる。飲まれまくってみようかとも思ってる。これは決断だ、要するに人生をシラフで生きるか酔っ払て生きるかの決断だ。20台の貴重な時間を酔っ払て生き続けた人間は、これから先も一生酔っ払った人生を歩むことになるだろう。
だが、例えば仕事終わりに好きに酔っ払って、好きな音楽を聴いて、好きな映画やフィルムを見るような生活は、(人生の基盤さえしっかりしていれば)それなりに、いや、かなり楽しい。
人生の目的は楽しく生きることだろうか?収入の基板が崩れないように絶えず自分をブラッシュアップすることだろうか?これと決めた目標を達成することだろうか?家族を養うことだろうか?一人の人間を愛することだろうか?
どれも正解かもしれない。
だが、あらゆる報酬が何らかの犠牲の上に成り立つように、必要なもの・欲しいものを捨てることなしに、どれかを選び取ることは出来ない。酔っ払って生きることを選ぶということは、自分がぎりぎりまで努力してやっと届くというような目標から離脱することを意味する。
昔は自分がアル中になるなんて思ってなかった。俺の大学時代を知る人間は一様に、今の俺の酒の飲みっぷりに驚く。何しろ俺はグラスビール1杯でくらくらに酔っ払あっていた下戸中の下戸だったのだから。今は生中3杯までならグイグイいける。
大学時代の友人は語る。
「盛男、豪気な飲みっぷりになったなあ!」「しびれます、盛男さんのダイソンを思わせる飲み口にはしびれますわ」「ごめん、盛男の豪胆な飲みっぷり観てちょっと勃起した」など、様々な賛辞が贈られておる。
最近も家に帰ったら缶ビール1本くらいのもんは必ず飲む。
近頃はそれでは足りなくなって、バランタインファイネスト(スコッチウイスキー)を原液(ストレート)で飲んだりしている。
なぜ揃いもそろって、20の中頃を向かえた男は酒に溺れるのか。
俺の周りの人間も、だいたい酒飲んどるわ。酒に、飲まれとるわ。
とりあえず、今後数年間は飲みまくってみようかとも思ってる。飲まれまくってみようかとも思ってる。これは決断だ、要するに人生をシラフで生きるか酔っ払て生きるかの決断だ。20台の貴重な時間を酔っ払て生き続けた人間は、これから先も一生酔っ払った人生を歩むことになるだろう。
だが、例えば仕事終わりに好きに酔っ払って、好きな音楽を聴いて、好きな映画やフィルムを見るような生活は、(人生の基盤さえしっかりしていれば)それなりに、いや、かなり楽しい。
人生の目的は楽しく生きることだろうか?収入の基板が崩れないように絶えず自分をブラッシュアップすることだろうか?これと決めた目標を達成することだろうか?家族を養うことだろうか?一人の人間を愛することだろうか?
どれも正解かもしれない。
だが、あらゆる報酬が何らかの犠牲の上に成り立つように、必要なもの・欲しいものを捨てることなしに、どれかを選び取ることは出来ない。酔っ払って生きることを選ぶということは、自分がぎりぎりまで努力してやっと届くというような目標から離脱することを意味する。
コメント
もっと勃てていただけるよう精進する気概であります