●情報に踊らされる現代人の肖像
2007年1月28日 エッセイ昨今の情報技術の発達たるや目を見張るものがある。
我々は多種多様なメディアから多種多様な情報を入手できるようになったのである。
確かに、情報は人生を有意義に過ごすためには不可欠なものだといってもよいであろう。
時に己の身を守る鎧となり、
時に敵を刺す槍となる情報。
しかし21世紀となった今、我々現代人は大きな問題に直面している。
情報という鎧を身に纏うのはいいが、
逆にその重さに耐えかね、鎧それ自体に押しつぶされる人々が近年急増しているのである。
すなわち、情報に過敏になりすぎ、知らず知らずの内に自己の行動・思考を制限されてしまい、どうしようもこうしようもなくなってしまっている人々が急増しているのだ。
具体的にどのように情報に囚われてしまっているのか?
MNN(盛男のネタ帖)が独自ルートを最大限に活用し、
情報弊害に関する投稿を秘密裡に募ったところ、
驚くべきレポートが多数寄せられたので、それを以下に転載したい。
●鳥インフルエンザが怖くて飼っていたインコを泣く泣く惨殺した(愛知県名古屋市・桑本留美子さん・12歳からの投稿)
私の家では自分が幼少の頃からインコを飼っていました。
彼女は私の唯一の親友でした。
兄弟も居ませんし、親も共働きです。
音のしない家に帰って、
迎えてくれるのはインコのろんちゃんだけでした(ええ、インコの名前はろんだったのです)
毎日、私はその日あったことをろんちゃんに話しかけました。
返事はありませんでしたが、なんだか心と心で繋がってる…、
そんな幻想を確かに実感として感じました。
実際に繋がってなくたって良いです。
私はいずれにしろろんちゃんの事を、
心のそこから好きだったし、ろんちゃんも私によくなつきました。
籠の網にひと指し指を通すと、ろんちゃんはつんつんと突いてくれました。
心地よい感触でした。幸せでした。
その幸せは今思えばガラス細工のように脆く儚い幸せでした。
悪夢は私のすぐ傍までにじりよってきていたのです。
幸せを謳歌していた私は、けっしてその陰に気付く事はありませんでした。
ある朝のことです。
両親とニュース番組をみていると、
「鳥インフルエンザが猛威を揮い、街はドえらいことになってる。」といった報道がなされました。
私は不安になりました。
インコのろんちゃんは言わずもがな、鳥類にカテゴライズされます。
すなわち、霊長類である人類に鳥インフルエンザの影響を及ぼす恐れがあるかもしれません。
背中に戦慄がズバと駆け抜けました。
自分や両親が鳥インフルエンザにかかって、
死ぬかもしれないと思ったからです
実際にテレビの中のキャスターも口にしていたように記憶しています。
「鳥インフルエンザで、83歳のご老人が大往生」と
殺される…。
私は我慢できませんでした。
カッターナイフを緑のお道具箱から取り出し、
チキチキと音を立てて刃を4センチほど上げます。
鳥籠へ向って真っ直ぐ、一歩一歩脚を運びます。
動揺などしていませんでした。
死にたくない。ならばろんちゃんを殺めるしかない。
それ以外の思考など私には全く思い浮かびませんでした。
ろんちゃんは木の枝にとまって、毛づくろいをしていました。
幸いにして彼女の位置は籠の網そぐ傍。
頭を狙った、と思った瞬間にはもうカッターナイフの刃は彼女の脳天に突き刺さっていました。
そのままぐじゅぐじゅとカッターナイフを回転させました。
どぷどぷと垂れ流される緑色の液体と血液。
私はそのままろんちゃんを一刀両断しようと勃然と思い、
満身の力を込めて縦に刃を振り下ろしました。
縦に割れたろんちゃんの残骸から、ひくひくと痙攣する内臓が見えました。
鳥籠をあけ、内臓をメッタ刺しにしました。
狂気。
確かに私は気が触れていたのかもしれません。
母が「やめなさい!」と叫んでも私は決して内臓を切り刻むのをやめませんでしたし、後ろから押さえつけられてもじたばたと抵抗し、死骸の内臓を刺しに刺していました。
結局私が死骸への冒涜をやめたのは、
父が拳骨で力の限りに私の頭部を殴りつけ、気を失ったからです。
今思えば、馬鹿げた行動だと思います。
しかし、鳥インフルエンザのニュースを聴いた時、
確かに思ったんです。
「ろんちゃんは、敵だ。」と。
報告は以上です。
情報が全て。
現代社会に生きる我々にとってそれは一面の真理であります。
しかし人の生き方・信念までをも情報に委ねてしまうようでは、
人間らしさの欠如と言われても仕方がないでしょう。
正しい人間と情報との付き合い方とは?
今、まさにそれが問われている。
http://blog.with2.net/link.php?373700
↑
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言わずもがな、
報告は捏造です。悪しからず。
我々は多種多様なメディアから多種多様な情報を入手できるようになったのである。
確かに、情報は人生を有意義に過ごすためには不可欠なものだといってもよいであろう。
時に己の身を守る鎧となり、
時に敵を刺す槍となる情報。
しかし21世紀となった今、我々現代人は大きな問題に直面している。
情報という鎧を身に纏うのはいいが、
逆にその重さに耐えかね、鎧それ自体に押しつぶされる人々が近年急増しているのである。
すなわち、情報に過敏になりすぎ、知らず知らずの内に自己の行動・思考を制限されてしまい、どうしようもこうしようもなくなってしまっている人々が急増しているのだ。
具体的にどのように情報に囚われてしまっているのか?
MNN(盛男のネタ帖)が独自ルートを最大限に活用し、
情報弊害に関する投稿を秘密裡に募ったところ、
驚くべきレポートが多数寄せられたので、それを以下に転載したい。
●鳥インフルエンザが怖くて飼っていたインコを泣く泣く惨殺した(愛知県名古屋市・桑本留美子さん・12歳からの投稿)
私の家では自分が幼少の頃からインコを飼っていました。
彼女は私の唯一の親友でした。
兄弟も居ませんし、親も共働きです。
音のしない家に帰って、
迎えてくれるのはインコのろんちゃんだけでした(ええ、インコの名前はろんだったのです)
毎日、私はその日あったことをろんちゃんに話しかけました。
返事はありませんでしたが、なんだか心と心で繋がってる…、
そんな幻想を確かに実感として感じました。
実際に繋がってなくたって良いです。
私はいずれにしろろんちゃんの事を、
心のそこから好きだったし、ろんちゃんも私によくなつきました。
籠の網にひと指し指を通すと、ろんちゃんはつんつんと突いてくれました。
心地よい感触でした。幸せでした。
その幸せは今思えばガラス細工のように脆く儚い幸せでした。
悪夢は私のすぐ傍までにじりよってきていたのです。
幸せを謳歌していた私は、けっしてその陰に気付く事はありませんでした。
ある朝のことです。
両親とニュース番組をみていると、
「鳥インフルエンザが猛威を揮い、街はドえらいことになってる。」といった報道がなされました。
私は不安になりました。
インコのろんちゃんは言わずもがな、鳥類にカテゴライズされます。
すなわち、霊長類である人類に鳥インフルエンザの影響を及ぼす恐れがあるかもしれません。
背中に戦慄がズバと駆け抜けました。
自分や両親が鳥インフルエンザにかかって、
死ぬかもしれないと思ったからです
実際にテレビの中のキャスターも口にしていたように記憶しています。
「鳥インフルエンザで、83歳のご老人が大往生」と
殺される…。
私は我慢できませんでした。
カッターナイフを緑のお道具箱から取り出し、
チキチキと音を立てて刃を4センチほど上げます。
鳥籠へ向って真っ直ぐ、一歩一歩脚を運びます。
動揺などしていませんでした。
死にたくない。ならばろんちゃんを殺めるしかない。
それ以外の思考など私には全く思い浮かびませんでした。
ろんちゃんは木の枝にとまって、毛づくろいをしていました。
幸いにして彼女の位置は籠の網そぐ傍。
頭を狙った、と思った瞬間にはもうカッターナイフの刃は彼女の脳天に突き刺さっていました。
そのままぐじゅぐじゅとカッターナイフを回転させました。
どぷどぷと垂れ流される緑色の液体と血液。
私はそのままろんちゃんを一刀両断しようと勃然と思い、
満身の力を込めて縦に刃を振り下ろしました。
縦に割れたろんちゃんの残骸から、ひくひくと痙攣する内臓が見えました。
鳥籠をあけ、内臓をメッタ刺しにしました。
狂気。
確かに私は気が触れていたのかもしれません。
母が「やめなさい!」と叫んでも私は決して内臓を切り刻むのをやめませんでしたし、後ろから押さえつけられてもじたばたと抵抗し、死骸の内臓を刺しに刺していました。
結局私が死骸への冒涜をやめたのは、
父が拳骨で力の限りに私の頭部を殴りつけ、気を失ったからです。
今思えば、馬鹿げた行動だと思います。
しかし、鳥インフルエンザのニュースを聴いた時、
確かに思ったんです。
「ろんちゃんは、敵だ。」と。
報告は以上です。
情報が全て。
現代社会に生きる我々にとってそれは一面の真理であります。
しかし人の生き方・信念までをも情報に委ねてしまうようでは、
人間らしさの欠如と言われても仕方がないでしょう。
正しい人間と情報との付き合い方とは?
今、まさにそれが問われている。
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言わずもがな、
報告は捏造です。悪しからず。
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