WEB上でキャラが一貫している人いるじゃないですか、
俺が敬愛するSさんはインターネット黎明期から活動している。早い話、15年選手だ。
彼は場末のようなブログから瞬く間に名を馳せ、そして伝説的なコピペを作った。
今は第一線からは退いたものの、Twitterでキレのある呟きを今もなお投下し続ける。

驚くのが、語り口調や、立ち位置、哲学、要するに「キャラ」が昔も今も変わらないのである。いま語っていることを15年前に持っていってもなんら違和感がないし、逆も然りなのである。

俺は違う。俺はいろんな作家や、Sさんのような有名ブロガーから文体をパクっていた。立ち位置もフラフラしている。要するにアホなことを基本的に喚いていながら、たまにカッコつけて政治的なことを書いたりする。かと思ったらポエムなんか書いてしまう。これはではいけません。



一貫したキャラクターでずっとWEB上に君臨し続けることは、簡単ではない。
確固たる自分像があって、それに忠実であり続けることが必要だからだ。多くの人間にとって、確固たる自分像などあるわけがない。

大多数が俺みたいにぼんやりと生きている人間ばっかりで、昨日言ったことも忘れて、今日は昨日と真逆なことを言っているような人間ばかりだ。

というわけでブレずに一貫している人間は素晴らしい、という話でした。
逆に、危険な思想(例えばオウム真理教)をブレずに持たれ続けても困りものなんですがね。
このブログを開設して10年ほど経った。

始めた当初は「童貞」がキーワードで、モテない男の悲哀をモチーフにして、バカバカしいことを書き連ねていた。

俺も早いもんで30間近だ。
童貞でもないし、結婚もしてるし、子供もいる、
まあ、どこにでもいるおっさんだわな。

昔のような「セックスへの飢え」や「女にモテたい」という欲がめっきり無くなった。それは俺が家庭を持ってしまったからだろう。なんというか、もう、面倒なのだ。万が一、嫁に不倫がばれて修羅場になるという想像をすると、ほかの女とセックスをしようという気が沸いてこない。

最近はもっぱら、オナニー。これですわ。
既婚者の男性諸君なら分かってもらえると思うが、オナニーは極めて大事だ。

既婚者の男性の幸せのバロメーターの一つに、間違いなく「オナニーの充実度」があるだろう。オナニーを我慢し続ける生活は苦痛だ。好きなAVを観ながら好きなタイミングで、自分の塩梅で出せる…。いやあ、たまりませんなあ。そんな快楽が制限されるのが、結婚生活だ。

いや正確には自室を持たない者の、結婚生活と書いたほうが正しいか。
自分の書斎や寝室があればそこで好きなだけやればよいが、それが無い人は大変だ。

嫁が風呂に入った瞬間や、買い物に行った隙、寝静まった深夜…。
まさに隙間時間を縫って、コソコソと惨めな気持ちでオナニーをしなければならない。別に悪いことをしているわけではないのだから堂々とシゴいていれば良いのだが、俺も日本男児だ。女に恥ずかしいところは見せられんのじゃ。

10年前はオナニーだけは思う存分できた。冗談抜きで12時間くらいずっとオナニーしていたことがある。イきそうになっては止め、イきそうになっては止め、を延々と繰り返していた。(このあたりは過去日記の「ベストオナニスト07」に詳しい)そんな、自由気ままな、奔放な、実験的なオナニーは、もう滅多にできない。

それは俺が歳を取った、ということなんだろう。学生の時の持て余すような有り余った時間、そしてセックスへのがむしゃらな渇望、社会とのあまりにも薄い接点、過剰なまでの自己愛。そういうものと、年を取るにつれて徐々に離れてきた。

「童貞なるもの」は哀しいかな、このブログの過去の記事にしか存在しない。



人に音楽を薦められてもなぜかまったく聴こうとは思わない。
たぶん、同様に、俺がこのブログで紹介してきた音楽もほとんど聴かれていないのだろう。





20代後半になって新しい音楽を聴こうとする努力をまったくしなくなった。かつては(ジャンルは絞っていたが)ゲオなんかに行って片っ端からCDをレンタルして聴いたものだ。当然、たいていは1度きりのつきあいだったわけだが。

今はそんな元気はまったくない。
10代後半~20代前半に聴いたアルバムを何度も聴き直したり、そのころから聴いているバンド・グループでまだ所有していないCDやBlu-rayを購入したりしている。
ロックを聴いてて保守的になっててどうするんだって話ですが。

さみしいもんだね。




2006年にこのブログを開設し、はや7年が経過している。

7年経って思うのが、人間というのはそうそう簡単に変わらねえなぁということだ。

俺は10代の頃は人間は自分が頑張れば、思うような人間になれるとなかば牧歌的に・花畑的に信じていたところがあった。
10代後半から20代前半にかけて、「あれ、これはちょっと違うかも」と思い始めて、だが、それを認めたくないがためになかば強情になって、自分が思うような境遇でないことを正当化するために、他者・環境を批判しがちになるようになった。
それでも「まあ俺はそれでも世界でたった一人の俺なのだから、たぶん、何かそれなりの歴史的な事をやってのけるだろうな」とアホみたいな顔して信じていた。

そして、いまも10代の頃のピュアーな自己に対する無根拠な自信と、不都合な事実を直視しない不遜な態度を貫き、なんとか、まあ、フワッと生き続けている。
7年でじゃあ何が変わったか?シモネタがそれほど好きじゃなくなった、仕事をなんとか続けられるくらいの忍耐力がついた、肩こりになった、その程度だ。それ以外の根本的な人生観や、差別的な意識や、好きな音楽や、恐ろしいほどの怠惰は、まったく変わっていない。

だが、近年の傾向として、変わらないことを俺は受け入れつつある。10代の頃は、とにかく「変わらないといけない」という強迫観念があった。その発端を端的に言うと俺の才能の問題だが、それはいつも俺を悩ませた。具体的な事例を一切省き、あまりにも解りやすく書くと「お前は無力で、無能で、陰気で、女にもまったく相手にされないどうしようもない男だ」という意識が、常に俺の中にあった。

いまは、もうそれは20後半にもなったら、少しずつ受け入れていくしかないんじゃないか、と思い始めている。諦めることとは違う。諦めということは、対象に対してまったく興味をなくしてしまうことだ。
受け入れるというのは、対象に対し、自分自身とどう折り合いを付けるかを考えるということだ。

これからも一時期に比べ頻度は落ちるかもしれないがブログは書き続けていきたい。


7年前と変わらずRolling Stonesを聴きながら。


参った

2013年6月2日 エッセイ
いやあ、参った。参りっぱなし。

でもまあ、最後は旨いツマミと酒とあったかい布団があれば、まあいいか、って感じですね。
好意を寄せている対象に自分の思うがままであって欲しいと思うのは普遍的な感情ではないだろうか。そのまま思うだけであればまだ良いのだが、思うがままである状態であることを相手に強要する人間がいる。難しいのは、その強要が非常に合理的・常識的な状態への強要であることも、場合としては、ありえるし、俺が推察するに、多くのの暴力的な支配の前兆には、そういった合理的・常識的な状態への強要があるのだと思う。

人は人を、支配できるかという問題はさて置いておいて、いちど対象が自分の支配に及ぶと判断すると、そのレンジは、次第に拡大する。口頭での支配から、精神的な支配、最後には暴力的な支配へ、不可逆に進行していく。(当然ごくごく稀に例外もあるだろう)しかしながら、強要される側というのは決して心の底からは納得しないものである。彼女・彼にはそれなりの理屈があるが、それは互いに簡単には理解されない。いや、理解を放棄しているからこそ、支配的な関係が生まれるのではないか。それを認識し、その上で支配的な関係を結ぶ、というのは、ある意味で、理想的な関係なのかもしれないが。
情報を常に検索できる端末を持ち運びできることは有益だ。

有益だが、「もっと本当は知るべきこと・考えるべきこと」を棚上げし、目先の馬鹿みたいなクーポン・くだらない豆知識の収集に奔走してしまってはいないか、常に自戒すべきだろう。情報の取捨選択とは、液晶画面の中の話以前の段階から始まっている。
最近オレの仕事スピードがあまりにも早く・速くなりすぎて、
定時帰りを連発している。オレがいつも1番初めに帰るのでなんかオレが楽しているみたいなそんな空気が出てきてしまっており、危惧をしている。



昼休みも漫然とヨダレ垂らして寝ぼけている主任を尻目に、ブラインドタッチを加速させているなど影の努力をしているが、寝ぼけた主任はそんなことに気づいていない。

おそらく、「うわー盛男定時帰りだし、超楽してるわ~、仕事振りまくってやろ~」と考えているに相違ない。オレが帰る際のあの「え?もう帰るの?嘘でしょ?」みたいなおろおろした挙動不審な眼を見ると、それは火を見るより明らかである。



今後のオレの課題とすると、いかに定時で帰りながらも、寝ぼけ主任どもに、
「うわー、あの圧倒的仕事量を抱えた盛男が早く帰るということは、逆に・翻って考えてみるとオレの仕事のスピードが遅いということなのかなあ?」と気づかせてやることであり、そして無駄に残業をし経費を圧迫している害虫社員に対して「君たちの仕事は所詮、自己満足の域を出ていない」と明確に気づかせることだ。



平社員にしてはかなり重大な使命だと感じているが
とにかく、啓蒙。定時帰りによる啓蒙。これを続けていきたいと考える。


税金はらいたくないよー!!




●【生活保護を問う】外国人受給 帰国せず際限なき膨脹 「厳しい入国管理行政を」(産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/121001/trd12100100340000-n2.htm

0から

2012年9月30日 エッセイ
結局オレは自由を選んだということになるのかもしれない。

まあここでは詳しくは書けないがとにかく、ちょっとした節目、折目、区切りを付ける事になった。当然オレも鬼の子ではないし、妖怪でもないから、今回の決断には鬼の目にも涙というか、まあそういう形になっている。

自分の人生において最重要の判断基準は何か?
オレはそれを限りなく深く視すえ、そしてそれに犬のように忠実だからこそ、判断ができた。おそらく自分の判断基準が不明瞭な輩であればもう、何が何やらよくわからなくなり、だらだらだらと結論を先送りにし、結局、自分も相手も不幸にしてしまっただろう。





ある意味で、今日から0からのスタートだ。
「0から」というのは決して悪くない。真っ白のキャンバスを目の前にした時の高揚感と言えば、少しはわかってくれるだろうか。

秋@The Police

2012年9月27日 エッセイ
「秋になると…」という出だしで毎年秋にまつわる話をこのブログでは書いているが、
秋になるとポリスを聴きたくなる。当然ギリシア語の都市国家の意味でもないし、警官隊を意味する英語でもないし、御存知の通りthe police、イギリスの伝説的なロックバンドのことを意味する。


なぜかは分からない。
あの音の密度の低い、乾いたロックを聴いていると秋を実感するのだ。





Message In A Bottle / The Police
http://www.youtube.com/watch?v=ST11pDWg5oU
ある人の日記を過去(といっても数ヶ月レベルですが)から見ていったんですけど、泣けました。

なにも、特別に劇的な内容があるわけでもないし、波瀾万丈のストーリーがあるわけでもないし、人が死んだり生き返ったりするようなこともない。

筆者は女性で、主に彼女の心の動き(恋愛がメインですね)を辿ったたブログだ。彼女のその時のあるがままの感情が静かに、それでいて正直であろうとする意思のもと記されていて、読んでいて心地が良い。要するに、無理をしていないのだ。無理をしていないということは、素直に心に響いてくるということでもある。

彼女の吐露するような言葉になぜか男である俺、26にもなった俺は感動を覚えた。Twitterのような細切れの言葉でもなく、SNSに書かれる身内を意識した嫌に閉鎖的な表現でもなく、ひとかたまりの正直な文章の連続だからこそ、感動はより深まったのだと思う。

俺もかれこれブログを通算8年くらいやっているけど、まだまだ捨てたもんじゃないな、と思いました。アホみたいな下ネタがオレの歴史みたいになっているけど、とりあえずその線でこれからも頑張っていくしかないな、と思いました。おわり。
明るい性格を定義せよ、と言われたらどう答えるか。
たとえばコメディアンは明るい人間だろうか?ミスタービーンは明るい人間だろうか?松本人志は明るい人間だろうか?立川談志は明るかっただろうか?

求人の際、バカの一つ覚えみたいに「コミュニケーション能力の高さを要求する」という文言が乱れ飛ぶが、コミュニケーション能力の根底にあるのは、間違いなく「明るさ」だ。

明るさの素質は、俺の考えで言うと次のような素質(生い立ち)を持った人間だ、すなわち、両親の愛情を十分に受けて育った、他者と比較して卑屈にならない、身の丈を知っている、偏執的ではない…。

大きく言うと、欠損のない人間だ。
イメージとすると、河原の石を想像すればわかりやすいかもしれない。
丸く、すべすべしていて、触ると気持ちいい。
「なんかこいつといると無条件的に安心できるし、楽しい」というイメージ。これが明るさの源泉だ。

欠損は、時に偉大な才能に転化しうる(特に芸術の世界では)が、
日本では偉大な才能よりも角が取れ、極限まで丸くなった丸っこい人間が好まれているらしい。いや、気持ちはよく分かりますけど。



企業が学生に求めるのは「コミニュケーション能力」 9年連続第1位、経団連調べ
2012.7.30 14:08
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/120730/biz12073014090006-n1.htm

一ヶ月以上更新していませんでしたが、あえて理由を述べるとすると、取り立てて書くことがなかったからです。

最近はTwitterやらFacebookやらで、のべつ幕なしに本当に伝えるべき内容なのか否かさっぱりわからない戯言を垂れ流す輩・売女が多いですが、
私としてはここ1ヶ月以上の間、あえて沈黙の重みを伝えてきたつもりです。
沈黙でしか伝わらないことがあるのではないかと、無言で伝えてきたつもりです。



もうすぐ長期休暇に入る。
しばらく隠遁したい。
(大上段に構えましたが休暇は所詮、1周間程度です。)
Twitterについて語ることを、俺は恐れている。

ブログで日記を書いていて、相変わらず文章は全く洗練されずにここまで来たが、曲がりなりにもブログでそれなりに文章を書いている俺にとってTwitterというのはなんというか、完全に敵だ。

制限文字数が140文字だと聞いている。俺は聞きたいわ。Twitterでどや顔してツイートしている・フォローされてどや顔されている君に聞きたいわ。そんなちっぽけな文字数で、君の思いの丈を語れているのかと。君が口角泡を飛ばして・顔を茹でダコのように真っ赤にして語るその熱いパッションは140字以内で語れるのかと。
お前はその熱い意志をたとえば動画にとって、それを編集し、YouTubeやニコニコ動画にアップロードするなり、ブログで1万字くらいの長文で思いの丈を精密に描写すべきちゃうんかと、まあ俺はそう思うわけ。



Twitterを知った時、ますますコミュニケーションがインスタントになっていくな、と思った。
これに頼り切るような世代になったら、日本終わるな、と思った。老婆心が自然と発揮された形になった。
まあ使い方一つやと言われればそれまでだが。。。


ただ、これだけ流行っているTwitterやFacebookにたいして食指が動かないというのは問題かもしれない。
それは結局、自分の知っている世界にだけ閉じこもって、拡張しないという意志の表れだからだ。
Twitterの活用方法についてまったくイメージがわかなかったり、Facebookで本名を載せることに対してかなり後ろ向きなのだが、どんどん「流行り」から遠ざかっている実感がある。流行りを追いかける必要は必ずしもないが、少し不安になる。
俺も25歳になった。このブログを始めたのが20歳の時だった。もう「なう」とか言って喜んでいる年じゃないし、本名さらしてアホをやる年でもない。
結局、この地味なブログ1本でやっていくしかないな、ってかんじ。ということでこれからもよろしくお願いします。

取り返しの付かない事態が進行している、あるいは眼に見えないところで発生してしまっているという疑念にかられる。

淡い意識の中で電車に揺られ会社に向かい、鈍い頭痛と共に帰りの電車に揺られる毎日が、風の様にさらさらと過ぎ去っていく。
俺は時に冷淡に、そういった日常を眺める。巨大な洪水に町が流される映像を見るように、無力感でいっぱいだ。

ある哲学者は、俺のような人間に「鷹の勇気と蛇の知恵をもて」と言った。あらゆる生命が己の勇気と知恵を持って何かに対処できるという幻想と、そうしないと何も始まらないという身も蓋もない精神論。いずれにしろ、取り返しの付かない事態は、ほぼ間違いなく、進行している。結局は、是と認められるかどうか。その一点に尽きるのだが、自信を持って是、と自認出来うる人は、相当な自信家か、あるいはただのアホだろう。
プロスポーツ選手が神妙な面持ちで「自分のプレイで、被災者を勇気づけたい」といった趣旨の発言をしているのを目にすることがある。ハッキリ言うと、ふざけた発言である。

俺は被災者ではないが、もし被災者だったらまったく知らないスポーツ選手がいくら頑張ったところで、優れた成績を残したところで、まったく勇気づけられないし、もっと言えば、なんというか、自分たちが彼らスポーツ選手のパフォーマンスの「ダシ」に使われているようで、非常に不快に感じると思う。更に言うならば、「安全なところで気持よくスポーツやって勇気づけられたらいいだと?ふざけるなこのバカヤロー」と思う人だっているかもしれない。

スポーツを観て感動して元気を出す人間は何も言われなくても勝手に元気を出すし、スーパープレイを観て勇気づけられる人間は、何も言われなくても勝手に勇気づけられるものだ。

寄付をしたり、支援物資を輸送したり、ボランティアで炊き出しを行ったりするならまだしも、
自分の仕事であるスポーツの結果などで被災者に「勇気づけたい」とか「励みになってもらえるといい」とか「元気をだしてほしい」などと口に出して言うのは、恥ずかしいことだから即刻やめるべきだ。そんなことを言って初めて勇気付けられる人間は、結局すぐにその感情を忘れてしまうだろう。


彼らスポーツ選手にできるのはいつもどおり、万全の状態で・最高の集中の状態で、淡々とその競技を行うことだ。それだけが、特定の人間に、純粋な意味での感動を生む。無駄な反感も招かない。
余計なことをべらべら喋るのは、俺のような外野に任せておけばいい。



感情を正確に伝えることについて、そしてそれを人と共有することについて、
俺は最近絶望している。

ネットワークの構成図を描いたり、旅行の行程表を書いたり、毎月の収支を記録することは、正確に記すことに専念すれば、誰でもできる。そしてその情報を共有することも、非常に容易だ。例えば社内であれば、当該ファイルをファイルサーバの然るべきフォルダにぶち込み、各々がそれを閲覧し、論理的に理解すれば共有は終わる。





翻って、感情を正確に人に伝えるのは、ものすごく大変だ。
繰り返しになるが、そのことについて、俺は絶望している。

もしかすると、感情の共有というのは幻想なのかもしれない。

いくら言いたいことを言っても、何万時間話し合いを続けても、俺はどこまで行っても俺だ。話している相手とは育った環境も、うけてきた教育も、ともすれば性別も、年齢も違う。
相手の感情を漠然と想像することはできるかもしれないが、それはあくまで、自分の中での妄想に過ぎない。

切実な感情や想いを他人(特に親しい人間)と共有したいという欲望はおそらく普遍的なものだと思う。
だがそれは本当に困難なことで、もしかすると、不可能なことかもしれないという認識を、どれくらいの人が思っているだろうか。感情をめぐるコミュニケーションの第一歩はそこから始まる。

俺達はあくまで真摯に、感情を正確に伝えようと最大限努力することしか出来ない。
絶望的で、徒労に終わるかもしれないという憂鬱と闘いながら、それでも正確に、相手に分かるように自分の感情を伝える努力をすること。
時に非常にストレスの溜まる作業になるが、絶望したままで何もしないよりはマシだし、絶望すらせずに阿吽で勝手に感情が伝わると脳天気に思い、のちのち最悪の結果を招くよりかは、はるかにマシだ。


自分の生き方を見直すのはどういう時か?人生が順風満帆な時か?多大なリスクを負って挑戦した競争に敗北した時か?


ある人は言う。「現状を打破したい。だが、これといった契機もない。俺は、ゆっくりと死んでいくようだ」

彼らは、ともすれば、どういう現状を、どう変えたいのか、それすらも把握していない場合がある。あらゆる問題・課題と対峙する際、まず我々は何をすべきか。
第一に、問題・課題の対象をはっきりと認識すべきだ。フォーカスのずれた対象に何をどうアプローチしてもほとんど無駄だ。視力0,001のド近眼が床に落ちたコンタクトレンズを探し出すように、解決の方法は、まず、手探りの運頼みにしかならない。

顔も上げられないような敗北や、非常に憂鬱な毎日を過ごすとき、人は現場を嫌でも直視する。打ちひしがれた現状を、変えたいと思う。
それは漠然とした思い出はない。切実な、願いだ。

逆説的かもしれないが、「現状を打破し、勝利したい」という強いディザイアを持つには、決定的な敗北や・逆境、あるいは身も縮こまるようなコンプレックスが必要だと俺は思う。

あらゆる人が、そういったコンプレックスや逆境にいるわけではないが、
多大なコストを払い、リスクを抱え、とんでもない勝負をすることは、誰だってやろうと思えばできる。敗北を想定して物事を進めよと言うわけではないが、とんでもない敗北こそが圧倒的な成功へのスタートになることも多いのではないか。

イージーなコミュニケーションの方法とは結局のところ、喋らないでも意思が勝手に伝わる、ということだ。

例えば昭和の親父が黙って威張っていられたのも、親父は威厳ある存在で、問答無用で怖い存在だという前提があったからではないか。喋らないことは、簡単だ。
黙って眉間に皺を寄せて、口をヘの字に曲げて、胡座をかいて、たまに怒鳴ってゲンコツ食らわせれば、それで話は完結する。無駄なことを喋ってしまうと端的に言うと、アホがばれる。アホがばれると親父は尊敬されなくなってしまうという恐怖にかられる。尊敬されないとか、人に(少なくとも家族に)認められないということは、いい大人にとっては切実に辛いことだから、親父どもは、なんとか威厳を保とうとする。

「親父は怖い」というコンセンサスがない社会だと、親父は大変だろうと思う。
「なぜ親父は尊敬に値するのか、敬われる必要があるのか」それらを明確に説明する必要があるからだ。当たり前だが、仕事をして金を稼いでいるいるだけでは、尊敬には値しない場合もある。特に子どもにとってはそうだが、金を稼いでいるなんてものは色々尊敬すべきことがある中の、一要素にしかすぎない。無条件の畏怖というか、尊敬などというものは、奇跡的な確率でしか成立し得ない。

ただ黙って威張っているだけで心地いいポジションが生成される所に、「なぜ親父が尊敬されなければならないか」を説明する必要性は存在しない。

イージーなコミュニケーションは往々にして社会的通念によって成立させられる。社会的通念は徐々に変わっていくが、それは一様ではないし、年代・性別によっても大きくその捉え方は違う。

共通の認識を持つためのコミュニケーションにおいて、社会的通念がマッチしている者通しだとそれは簡単だ。例えば15歳の日本人男性が14歳の日本人男性と意思疎通することは、15歳の日本人男性が80歳のケニア人女性と意思疎通することに比べて、基本的には容易だ。

オレは、たまに「日本人は共通の社会的通念を持っている」と誤解してしまう時がある。他人が他人だと思えない時が、ある。そういう時にイージーなコミュニケーションに、依存してしまいそうになる。ノンバーバルな、阿吽で済まそうとする甘えんぼ思想に頼ろうとする。

それも、ある意味無理は無いのかもしれない。我々が学生だった頃、


…疲れたのでまた次回、あるいは、書きなおすかもしれない。シラフに戻らないと冷静になれない。逆に、シラフだと、書けないかもしれない、








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