生きるというのは何なのだろう?
最近そんな事ばかり考える。

物質社会。
金がモノを言う社会において、
人間の精神が等閑にされている、というのは聞き飽きた文句かもしれない。

ただ、僕はなんとなくそれは正しいのではないか、と思う。
金儲けに走り、家族を顧みず、生きる事を消耗としか捉えられない社会、それが今の日本である、と思えてしかたないのだ。

むろん、それは実体を伴わない、空虚な妄想でしかないことはよく分かっているつもりだ。

だが、どうしても、人間的に「生きる」ことが突き詰めて考えられていない、熟考されていない、そんなことを考える暇があれば、金稼げ!といった雰囲気が日本中に蔓延しているように思えてならない。

それは例えば年間自殺者数の異様な多さからも窺えるのではないだろうか。

日本では年間約35万人が自殺しており、これは国際的に見ても極めて多い人数である。

また交通事故死が年間約1万件であることを鑑みるに、日本がいかに不気味な国であるか、ということが分かると思う。

自殺者数が多いことが、「生きる事」を等閑にしている証拠とはならないが、どうしてもそういった思考が頭をもたげる。

自殺する要因は人それぞれであるがおそらく根底にあるのは「生きることへの絶望」であろう。

経済苦、人間関係の縺れ、病気への絶望、それぞれ並大抵の苦痛ではないはずだ。

僕はそれほどまでに深い絶望を味わったことはいまだかつてない。
だから、軽々しく「自殺は駄目だ!」などと言えない。
そしていくら僕が生きる意味を考え、明るい明日を描こうとも、絶望とは足音もなく来るもので、(例えば僕は喫煙者であるが、いつ医者に癌を宣告されるか解らないし、恋人から酷い仕打ちを喰らうかも解らないし、将来確実に儲かると踏んでいた株に失敗し(例えばライブドアのケースみたいに)借金まみれになって金融屋に追い掛け回され家は抵当にかけられ、妻はソープに売られ、自分は内蔵売れなどと脅され、生きることが苦痛でしかなくなる、等。)その運命には抗えない。

そして、その太刀打ちできない運命に直面することは仕方ない。
問題は直面する前、後だ。

その運命とどう顔合わせするか、ということなのだが、少なくとも僕は、楽しく生きる、としか言いようがない。

凡庸極まる意見であるが、最大公約数的に語るとこうなる。ただ、語彙がないだけなのかもしれませんが。

そんで、楽しく生きることとは何か、と考えるにそれは金ではないだろう、ということは分かるのだが、金以外のものはなかなかどうして不確実性が高いので、それなりにリスクは高い。

日本において、いくら借金が多いと言われようが、国の信用度は世界でもトップクラスであり、そうそう円の信用は揺るがない。

だが、愛だとか、友情だとかいったものは、
極めて壊れやすい、儚いしろものである。

信用とは築くのは困難だが、壊すのは容易い、と誰か高名な人が言ったらしいが、愛も友情も同じであろう。

人間とは弱い生き物で、やはり確実性の高く、それでいて有益なものを選びたがる。それすなわち金なのだが、金は決して個人を本当に支える存在たり得ない。

というのも死ぬ直前に思うのは何だろう?と考えた時、
僕は決して金など思い起こさないだろうからだ。

きっと愛した人、愛すべき友を思い浮かべる。
彼らとの関係は確かにもろいかもしれないが、
その半面でかけがえのない存在である。

そのかけがえのない存在、彼らとの生活が生きる事の醍醐味なのだと最近は思う。
無論、必ずしも共に暮すことを意味せず、同じ地球上でそれぞれの生活を送り、それでいて心では通っている、そういう関係で十分なのだが。

人間は決して一人では生きてゆけない。
きれいごと、青臭い言葉と言われるかもしれないが、
それでも僕は人との繋がりを大事にし、
自分の生をまっとうしたい。
それが、地球という牢獄から一生出る事の出来ないであろう囚人に許された最大の幸福であると思う。

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共感してくださった方も、「餓鬼は黙れ」と思った方もクリクリクリっとクリトリス!
生協の白石さんっつーブログがあります。
まぁ一時期はやったからみなさん当然のようにご存知ですよね?

で、紹介文がこちら↓

東京農工大学生協職員の白石さんブログ 生協の白石さんの名回答、珍回答に誰もが大爆笑。ポスト電車男となるか!?

ほおほお、なーるほど。おもしろそうでございますな。

ちょっち覗いてみますかねー。

↓から行けます。

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… 




……







………







読みましたー?読みましたよね、もちろん!
読んでない人はいないと思いますが、まぁもう一度だけ

↓から行けますよー。

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で、僕が読んだ感想と言うのは、
はい?
なんですか、コレ読んで本当に爆笑している人いるんすか?といった感じですかね。

紹介文には、

東京農工大学生協職員の白石さんブログ 生協の白石さんの名回答、珍回答に誰もが大爆笑。ポスト電車男となるか!?

と、誰もが大爆笑といけしゃーしゃーと明文しておきながら、なんすか、全然「爆笑」をとろうという気概が見えないではないですか!
しかも今日の記事では「ゴムを販売しないのですか?」という非常にボケやすいテーマにあるにもかかわらず、
アンサーときたら「輪ゴムと耳栓(ゴム製)は売ってますねん。」
ときたものだ。

これでホントに誰もが爆笑?そしてこれがチン回答?
ははは、世の中とはなかなかどうしてレベルの下がったものですね。


というのは、僕の友人の中田氏(なかだし)が言ったもので、
僕個人の意見ではないことをここに明言しておきます。



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ブログというのはアレですね、毎日更新しないとなかなか書く気が起こらないものですね。

ここ二日ほど更新を怠っていたのですが、それもこれも
「うーん、今日はそうやね、夜も遅いし、さっさとオナニーして寝た方がええよね、うん。」
という妥協をしてしまったからに他なりません。

まぁ考えたところ、ブログの更新をしたところで一銭も入ってこないし、それにまぁ一つの日記を仕上げるのに小一時間はかかる。僕の場合大体30分から45分くらいかけて書くので、
その時間はなかなか長いものである。

更新はその間にあたいする作業かといえば、そりゃもう、値する。

なぜかって気持ちいいから。
こうやって文章をバチバチと打ち込む、というのは一種の排泄行為に他ならない。排出行為とは大概に置いてきもちいものである。

排便、放尿、手淫、どれもこれも気持ちいいものだ。
よって、頭にうずこまっている考え、感情をテクスト化する行為も一種の排泄と考える事が出来き、快感を伴うことになるのである。

余談であるが。夏目漱石は小説を書くことを脳が屁がこくと表現したらしい。

それで肝心なのはその書こうとする気もち。これ。
書いている最中は「んふふふ、あー気持ちええ。」
みたいな変態的な気分に陥っているのであるが、
書く前の気持ちと言ったら、
「あー今日も今日とてネタもないし、困った困った。」
といった感じで、抑鬱的な心持ちなのである。
それでもまぁ、書いていったらなんとかなるだろ、となればしめたものなのだが、一行も書けなくなると悲惨である。
そして以下のような思考を徒然とすることになる。

「あー書けん。ネタない。クソ!そもそもなんでネタもないのにブログ更新せにゃあかんのや。それは自由意思でやってるのに、いつも間にか義務化してしまっている、というとても変な状態になっているということで、コレはよろしくない。
何がよろしくないって、僕はブログを書いて自分も気持ち良く、そして読んでくださっている方々も楽しんでもらおう、という気概を持っているのに、義務化してしまうと、まず僕のその、なんというかプレッシャーとなってしまい、気分がよくない。
そんで、そんかきぶんよくないマインドから発せられたテクストはたぶん、つまらん。ちゅーことは、読者も思う。あー時間損した。この盛男という男のブログは金輪際読まんようにしよう。そうしよう。と
そういう風に考えると、いま、ネタがなく、そしてネガティブになっている自分がブログを更新することに何のメリットもなくむしろデメリットが生じるわけで、今日は更新やめたる。」

この思考に間違いがあるのかどうかは知らないが、
まぁ僕にとっては正しい。

で、こういうことを一度考えると、それが常識化してきてしまい、次の日も同じようなことを考え、結局、
「今日は更新やめたる。」
となるわけである。

以前運営していたブログではそういうことも間々あり、一週間以上放置していたことも間々あった。

だが一度更新すると書く愉しさ、更新する達成感、みたいなものに魅せられて、翌日からもズコズコと更新し始めるのである。

無論、毎回ネタがあるわけではなく、常日頃考えている事や、些細な疑問などを書いてお茶を濁すこともある。

ただ、無心に、シコシコ更新する。コレが大事。
日記を書いていくウチにネタの原形がパッと閃くこともあるし、
これは何度も書いてスイマセンけれども、やっぱり書くことは気持ちいい…。

ということで、まぁ毎日更新するというのは時間的、体力的にも厳しいこともあるのですが、これからなるたけ毎日更新。といった気概でブログを運営していく決意を此処に表明し、今日の日記をしめさせていただきたいと思います。

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生きること

2006年11月10日 エッセイ
生きること
秋ともなれば、感傷的になるものだ。
何故かは解らない。ただただ感傷的になる季節、それが秋。

で、そんな感傷的な季節に僕は思った。

オレ、なんで生きとんのやろ。と。

へんな方言は無視してほしい。田舎者だから心では標準語で喋れないんだ…。

それは置いといてですね、もう最近なんというか生きている価値?というか、その目的が曖昧で何が何だかよく分からんのですよ。

まぁ、そもそも生きることに目的を探すこと自体が無意味だって意見も分かる。生きていること自体に意味があって、そこで泣いたり、笑ったり、怒ったりする事に意味がある、ってことなんでしょうけどね、その意味することは。まあ、確かにそうかもね、と感ずる。

だがそれはあまりにも漠然とした意見なのだ。
元来無気力で怠け者な僕にとって、そういった曖昧な意見はイマイチピンとこない。
なるほど好きな人と過ごす時は楽しいし、友人と馬鹿やってる時も楽しい。

だが、心の片隅で、「だからなんやねん。」と思う自分がいる。
そして普段はそういう自分が嫌で、そういった考えを圧殺し、
無視している。その思考を体現すれば、悲劇が待ちうけていることを過去に体験したからである。


高校時代。

僕にも親友と呼べる男がいた。彼とは休み時間だけでなく、下校の時間、休みの日など、頻繁に同じ時を共有していた。

だが、やはり僕は心のどこか暗いところで、
「コイツと絡んだところで、なんやねん。何の価値があんねん。まぁ楽しい事は楽しいけど、せやからどうやねん。」
みたいな考えはあった。

そしてある日突然僕は彼を無視しはじめた。
別段大喧嘩かましたわけでもないし、いざこざがあったわけでもない。
僕が勝手に無視しただけだ。
それもこれも、そいつと付き合うのが面倒になったから、という理由に集約される。
つまり「せやからどうやねん」という思いが、彼と共有する時よりいつの間にか大きくなってしまっていて、それが態度に出たのである。

もちろん後味は悪かったが、どうしても僕には彼とつるめなかった。
一度そういったダークな感情が心の半分を超えてしまうと、
一度泣き始めた人間がなかなかその涙を止められないのと同様、
その感情を抑えることはできなくなってしまうのだ。

もちろん、それを無視していつもどおりに振舞うことも不可能ではなかったが、それはあまりに苦痛であったので、僕はそれをしなかった。
自分の心に従ったと書けば恰好はつくが、その実やっていることは無視である。
心に従うことは必ずしも正しいことではない、とその時具体的に理解した。げんに、そいつは僕に無視され続け、非常に気が立っていたからである。

それから半年したのち、僕は心を入れ替え、そいつと元通りの関係に戻った。
始めこそギクシャクした雰囲気であったが、次第に蟠りもなくなり、過去の関係に戻った。
心を入れ替えた因果は、今では思い出せないが、単純にダークな心情が薄れたたからだ、と思う。
人と一定の時を過ごすと、彼彼女の嫌な面も見えてくるもので、それが自分の心のプレッシャーとなり、「こんな嫌な想いをしてまでつるむのアホらし。」となるものであるが、ある程度間を置いていればその「嫌な面」の影を潜め、「良い面」が想起されるものだ。失恋した後、あんなにむかついた女でも、「いいとこあったやんなー」と思ってしまうことに似ている。

おそらく、当時の僕も「あいつもええやつやし、また仲良くやっとこかなー。」というマインドのもと仲よくしようと言う決心に至ったのだろうと推察される。
今でも彼を無視し、その時の嫌な気持ちを思い起こすと気分が滅入る。

これが「嫌な思考」を体現する事をやめた僕の経験である。


だが、しかしである。
それが果たして正しのか?という疑念は今でも蟠っている。
自分が嫌だと感じたことで人を傷つけたとして、それは仕方ないことなのではないだろうか?と思うのである。

なるほど人は傷つくであろう。僕もその姿を見たりするのは辛いが、だからと言って自分の考え、マインドを表現できないのはどうなんだろう。傷つくこと、傷つけることは直感的に悪だと認識するが、果たしてそれが本当に悪なのであろうか?

人間関係についての話が長くなったのでこれはこの辺で終わりにしておこう。(これは生きることに意味がある、という意見に対しての疑問の例示でしたよね。)



話は「生きることの目的は存在して然るべきか?」と言うところまで戻る。
結論を先に言えば、僕には分からない。
そもそも生きる事自体が不確実性に富んだもので、それに目的をつけようとしたところで、具体的に目的を設定しようとしても「金持ちになる」とか「楽しく生きる」とか、そういった曖昧なことしかおもいつかない。少なくとも学生の僕ではそのくらいだ。

金持ちといっても資産総額2億か、5億か、100億か?
仮にその額に到達したとして、それで職をリタイアできるのか?また設定目標を変更して、更に金儲けに奔走するのではないか?
それ自体が良い悪いの議論ではなくて、ここで言いたいのは人生に目標など立てたところで結局人間なぞ不確実性に満ち溢れたもので、その目的が達成、もしくは破綻したところで「だからどうやねん」となるわけで、最終的に設定された目標はあってないものに帰するのではないか、と思うわけである。

無論コレは人生レベルでの「目標」もしくは「目的」であって、
短期的なそれを指してはいない。
だが、人間たるもの大きな目標があって、それに向ってこつこつ頑張りたいものである。

受験がなければ大抵のド餓鬼は勉強しないように、目標があるからこそ、人は頑張るのである。

そういう視点からすれば、今の僕は学生なので、人生なんぞ長い視点を捨て、卒業後のこと、もしくは単位を優でとりまくる、という短期的な目標を設定して生活すればよいのかもしれない。

ただこの案もはっきり言って「だから、優とって、ええ企業に入社したところで、それがどうなん?」という根本的な問いの解決にはなってない。

そして果たしてその疑問は無視しても良いのか?
僕は分からない。
解らないからこそ、「オレ、なんで生きてるんやろ」
という疑問を持つわけである。

学生というのは切羽詰ってないぶん、締りがない。
その日食べるものもあるし、生活には困らないから。(少なくとも僕はね。)
多くの社会人のように自立する必要もないのだ。

そういう身分の「オレ、なんで生きてるんやろ」はアマイと思う。だが、少なくとも僕にとってはなかなかどうして深刻な問題である。

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